星と天界の音楽と(星のソムリエのブログ)

 おばさんにもらった地図を広げ、どこを見て回ろうかと考えながら、ここが遠野のような所(観光地)でよかったと思った。なんだかこんな町中で、しかもこれが僕の地元の四街道だったら、さぞかしおかしな光景だっただろう。ひょっとしたら、測量士か工事関係の視察者なのかと思われるかもしれない。
 そんなことを考えながら、釜石線と平行して遠野の町を横切る早瀬川の橋の上で、自転車にまたがったまま地図を大きく広げていた。とにかく手始めにどこかを見て回らないと、地図上と実際に動く距離感がつかめないから、この早瀬川の近くにある“さすらい地蔵”に行ってみよう、そう思った。自転車を一分も漕がないうちに、ずいぶん古びた鳥居が周囲の風景に取り残されたといった雰囲気で立っていた。何だろうと思い、自転車を止めてその鳥居をくぐってみると、湯殿山と大きく書かれた石碑と、その横に“さすらい地蔵‐女地蔵”と書かれた案内板があり、そこに植えられた松の根本に漬物石のような苔生した石が鎮座ましましていた。これがさすらい地蔵だった。 
 遠野物語には、この石の話は出てこないが、似たような話として語られている。それが“十王堂”と呼ばれているもので、ガイドブックの写真で見る限り、こちらの方はしっかりとした地蔵の姿として残っていて、祠の中に奉られているのに、さすらい地蔵の方は相当さすらったのか、お地蔵様としての姿が残っていなかった。
 それでも言い伝えられてきた現物で、第何代といったものではなく、本当に投げ飛ばされてこんな姿になってしまったということを考えると、時の流れというものを実感せずに入られない。しかし、目の前の国道を車が行き交い、そのすぐ裏手には立派な消防署があって、この一角だけが違う次元に支配されているような、なんだか変な気分になってしまう。取り残され忘れ去られていく空間。他に残された史跡もみんなこんな感じなんだろうか?
 後で会下にある十王堂に行ってみたが、人家の庭先に立っている大木の根本に祠が見えるだけで、近くによって見ることはできなかった。

 昼食をとる前に、僕より一日遅れてやって来る平澤くんに電話をかけてみた。
 「今は止んでるけど、ときどき小雪がちらつくぐらいだから、そっちと比べるとずいぶん寒いよ。こっちに来るときはしっかり防寒具を持って来た方がいいよ」と、遠野の様子を教えてやる。そして、明日の朝十時に遠野駅で会う約束をして電話を切った。その後でガイドブックに紹介されていた一力という割烹店で冷えた体を温めることにした。
 誰もいない店内の座敷に座って、出された熱いお茶をすすりながら、冷え切った体を温めていると、カウンターのところで何かの取材をしているらしく、遠野のイメージがなんだとか、カッパのイメージがどうした、と言った会話が聞こえてきた。僕はその会話をおぼろげに聴いて時間を過ごしていたんだけど、窓の外に移る小ぢんまりとした庭園に積もる雪景色を眺めていたら、「なんでこんな遠いところまでやってきて、一人で食事なんてしているんだろう」と、ちょっぴり寂しくなってしまった。たぶんそれは東京にいる友人の声を聞いたからではないだろうか。
 一力で体を暖めたあと、雪が残っている道を使っても野見山をめざした。遠野の町を懐に抱えたその山には、コンセイサマと五百羅漢岩があるからだ。
 地図でみると、山の裏側にあるように感じたから「雪もありそうだし、時間がかかりそうだなぁ」って思った。それでもまだお昼過ぎだし、「今日はこれを最後にして、ゆっくり行けばいいんだから何とかなるだろう」という具合に自分を説得して、車は通行止めと書かれた雪道を、ゆっくりと自転車を走らせた。
 辺りをキョロキョロ見回してみると、石碑の数の多さに驚かされてしまう。しかもそれは“山神”と彫られたものが多いのでなおさらだ。この石碑というのは、その場所で山神に出会ったり祟りを受けたところという意味らしく、その神を宥めるために置かれた石碑だという。ここにくる間にも山神と彫られた石碑がたくさん置かれ、「ここもそのひとつなんだなぁ」って、しみじみ周囲を見回してみると、なんだか天狗でも潜んでいそうな木立が青空に向かってまっすぐのびていた。
 その木々が時々風に揺られてギィギィと音を立てて隣の木にぶつかると、枝に積もっていた雪がハラハラと音も立てずに舞いだし始めた。そんな光景を見ていると「なにやら物の怪がイタズラをしているんじゃないだろうなぁ」なんて、ひとりでいることの不安さと、遠野の持つイメージが僕の心をくすぐってきた。もしかしたら、さっきからいろいろと語りかけてくる何者かが、僕がやってきたのを喜んで出迎えの演出をしてくれているのかもしれない。

 体中に汗をかきながら、遠野の町が一望できる高台についたときには、陽がすっかり西の空に傾いていた。遠野の町にはまだ陽が当たっていたけど、僕のいるところは、その山のおかげで陰になっていて、わずかな風でもそよぐと寒かった。
 この辺は日中でもあまり陽が当たらないのと、車両通行止めで車が入ってこないからか、雪が深く残っていて、数分で行けそうな道のりを何度も足を取られそうになりながら、何十分もかけて、程洞のコンセイサマに辿り着くことができた。
 山の奥へと続く鳥居のトンネルをくぐってコンセイサマをお参りしたあと、さらに自転車を押し進めて、お目当ての五百羅漢岩へと向かった。少し行ったところに茶屋(もちろん休み)があったので、その前まで行ってみると“自然石五百羅漢岩”と書かれた案内板がたっていたから、自転車をそこに置いて案内板の示す方向に歩いて行ってみた。
 沢づたいに山奥へ入って行くと、わずかな水を落とす小さな滝があって、そのあちこちに一抱えもするような大きさの岩がごろごろしていた。近寄ってその岩をよく見てみると、岩の表面にうっすらと羅漢増の姿が刻み込まれている。そしてそのほとんどが雪の下に埋もれてしまっているらしく、どこまでが範囲なのかよくわからなかったので、容易に歩き回ることができなかった。ただ、僕が今までに見てきたどんな風景よりも悲しい表情をしていた。
 不思議なことに、誰も来ていないはず(雪の上に足跡が付いていなかったから)なのに、誰かが雪を払ってくれたのか、羅漢像の顔のところだけが露出して、こちらを見ているようだった。
 今では食料さえ余っているといわれるほどものが豊富な時代だから、餓死なんてほとんど考えられないだろうけど、この無秩序に置かれている羅漢岩を見ていると、当時の飢饉がどのぐらい厳しいものだったのか、彼らに教えられているような気がする。そして、彼らは何百年も前からここに座り続け、訪れてくる人たちに食べ物のありがたさを考えるようにと、静かに語りかけてきたに違いない。
 ここに刻み込まれている羅漢像は、今から二百年以上も前にこの地を襲った“天明の大飢饉”の際、あまりの悲惨さを哀れんだ南部家の菩薩寺大慈寺義山和尚という人が、この地にやってきて読経しながら一人で彫ったものだという。
 遠野については遠野物語以外にも、いろいろな本(せいぜいガイドブックぐらいだけど)を読んできたから、この五百羅漢岩に対しても多少の先入観を持っていたわけだが、二百年以上も前に刻み込まれた羅漢像が、ごろごろ転がっている風景の中に身を置いていると、歴史書やガイドブックで得た知識なんて、所詮、紙の上に印刷された活字を読んだだけで、時間とともに薄れていく暗記にすぎないと思った。
 刻まれてからかなりの歳月を経た羅漢岩は、青く苔生していたので荒削りな印象を受けたけど、近寄ってひとつひとつ見てみると、悲しそうな顔、怒っている顔、すましている顔と、実に様々な表情をしている。その中でもただ一人、とても優しい笑みをたたえた顔があった。僕は「この羅漢像を彫った人は、きっとこんな優しい顔と心を持った和尚さんだったんだろうなぁ」と、手を合わせた。
next

home(一番星のなる木)