星の手帖
『星の手帖』』より

 もうずいぶん昔のことになるけれど、いっとき望遠鏡を押入の中にしまい込んだまま、星を見なくなってかなりの歳月が経ったことがある。べつに望遠鏡や双眼鏡が無くても、星座探しや流れ星の数を数えることぐらいはできるのに、なんとなく星のことは忘れかけていた。
 
 それでも年に4回届けられる『星の手帖』に目を通しては「火星大接近か…」とか「来月は日食が起こるんだな…」などと一応の関心を示すものの、ほとんど何もしなかったといっていい。今にして思えばもったいない現象がたくさんあった。

 どうしてこんなことになってしまったのか。それは僕の周辺があわただしく変化していったから、地上のことに気を取られ過ぎたのかもしれないし、ただ単にしまい込んだ望遠鏡を引っぱり出すのが面倒くさかっただけなのかもしれない。だからといって、まるっきり見なくなってしまったのかというと、割とそういうわけでもない。社会人になって東京で働くようになってから「東京の空は汚いなぁ。これならウチの方が良く見えるよ」なんて、だんだん明るくなって見ずらくなりつつある四街道の星空に思いを馳せてみたり、旅先で道に迷ったときなんか「ウチの庭から見える星座がそこにいるじゃないか!!」って励ましたりしているから、見ていないようで見ていたのかもしれない。
 まぁ冷静に考えてみれば、星を見ようとする時間が無くなり、その分他のことに時間を使ってしまっているからなのであるが、友だちに言わせると、僕は時間の使い方がうまいらしく、毎週どこかに遊びに行って行方がわからないのだという。僕にしてみれば「時間が無いから限られた中でやりくりしていれば、自然と使い方もうまくなるだろう」と思っているが、別段そんなことを意識して行動をしていたわけではない。その僕を行方不明にしてくれるのは、藤井旭さんの『ふじい旭の新星座絵図』というエッセイ集とテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』のふたつの存在が大きい。

 1989年12月2日、宵の西天で起きた金星食の時、僕は遠野にいた。遠野といえば柳田国男の『遠野物語』が普通だろうけど、僕の場合は藤井旭の『遠野物語』ということになる。
遠野という所は、これといった史跡や名所が残されている場所ではなかったが、一歩でも町を外れ山村を歩き回ってみれば、かつては民話や伝説が生きていた空気に触れることができる所だ。水車や川や森など、昔から姿を変えずに今でもここにあるのだから。


 で、その時の金星食の方はどうだったかというと、四方を山々で囲まれた遠野盆地からは見られるはずもなく、宿の庭からしきりに探したけど、どうやら山の裏側で始まったらしく、その日の西天には金星も月も影も形もなかった。

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 久しぶりに星をじっくり眺めようと思って、テレビをつけっぱなしにしながら望遠鏡のチリ払いをしていたら、「今日から梅雨入り」という。世の中なかなかうまくいかないものである。

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