星と天界の音楽と(星のソムリエのブログ)

渋川春海(1639-1715)
寛永十六年閏〜正徳五年(享年77歳)

 幕府碁方安井算哲の子として京都に生まれた。幼名を六蔵といったが元禄5年(1692)助左衛門と改めた。字を順正、諱を都翁(つつち)といい新盧と号した。姓は初め安井のちに保井と改め、元禄15年には安井家の本姓渋川を名乗った。幼い時から天文を好み、14歳で父の役職をついで算哲を襲名した。山崎闇齋(やまざきあんさい)に朱子学・神道を学び、また土御門の神道の弟子にもなった。暦学は松田順承(まつだじゅんしょう) 、岡野井玄貞(おかのいげんてい)に学んだ。当時行なわれていた暦法は唐の時代の宣明暦で暦法採用以来すでに800年を経ていて天の運行に2日遅れていることが指摘されていた。春海は改暦に志して元の授時暦を研究するとともに有力大名の水戸光圀や会津候保科正之の知遇を得てうしろだてに仰ぎ、また陰陽頭土御門泰福に礼を尽くすことも怠らなかったことが改暦の成功に役立っている。初め春海は授時暦の採用を願い出たが、延宝3年(1675)の日食予報に失敗し改暦は中止となった。春海は授時暦の予報失敗の理由を研究し、中国と日本との経度差(里差)や近日点の移動を考慮して授時暦を日本の地に合うように改良した大和暦を完成した。貞享元年11月ようやくこれが採用され同2年(1685)より貞享暦の名により施行された。実に日本人の手に成る最初の暦法である。この功によって春海は天文方を命ぜられ碁所の職はとかれた。春海は神武東征以来貞享に至る全月朔干支を計算して「日本長暦」を著わした。これは陰陽対照表として長く使われた「三正綜覧」のもとになったものである。ほかにも大書「天文瓊統」を初め暦学関係の多くの著述がある。春海の事跡については弟子の谷泰山(たにじんざん)が新蘆面命」にくわしく書き残しており、また「春海先生実記」(渋川敬也著)がある。渋川家はその後代々天文方をついでいるが幕末に高橋家から養子として入った景佑(かげすけ)以外は特に業績を残しているものはいない。正徳5年(1715)10月6日77歳で死去した。

----天文学人名辞典 天文学年表  中山茂編(恒星社)より
〜 渋川春海のお墓 〜
(東京都品川区北品川「東海寺」品川区指定史跡)

  映画(冲方丁原作『天地明察』)の主人公にも抜擢された渋川春海が、現代日本の天文学の礎を気づいたと言っても良いのではないでしょうか?(というか、個人的にはここから本格的なお話を組むようにしてます)
 さて、今更ながらに日本の天文学の祖とでもいうべき渋川春海のお墓を訪ねたのは、2018年も暮れが押し迫った12月28日。空には一筋の雲も浮かんでいない快晴、お墓参り日和(笑)。春海のお墓は、東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4−11ー8)にあります。品川と大崎の中間に位置するので、どちらからでもアクセス可能ですが、私はJR大崎駅から訪れました。暮れの午後、乾いた空気をJRの列車が通り過ぎる音だけが墓地に聞こえていましたが、通り過ぎたときの静寂との対比が印象的な墓地です。
  この日は春海だけが眠っていると思っていたので、そのお墓が判明して、墓地を後にしましたが、いろいろと調べているうちに、春海以外にも渋川家の天文方に従事していた方々も眠っているということを知りました。また訪れてみようと思います。(2018/12/28)


参考書
☆渋川春海の研究/西内雅(錦正社)
☆日本史リブレット「人」050 渋川春海・失われた暦を求めて/林淳(山川出版社)
☆日本思想体系63 近世科学思想・下(岩波書店)
→天文瓊統 巻之一(渋川春海/中山茂校注)
→解題「渋川春海と天文瓊統」(中山茂)
☆日本人の宇宙観/荒川紘(紀伊國屋書店)
→第4章キリシタン天文学
☆日本人の天文観―星と暦と人間/広瀬 秀雄(NHK出版)
☆日本の天文学―占い・暦・宇宙観/中山茂(朝日文庫)
☆天文学者たちの江戸時代: 暦・宇宙観の大転換/嘉数次人 (ちくま新書)
→第一章中国天文学からの出発 渋川春海の大仕事
☆江戸の天文学者 星空を翔ける ~‐幕府天文方、渋川春海から伊能忠敬まで/中村 士 (技術評論社)
☆江戸の天文学 渋川春海と江戸時代の科学者たち/中村 士 (角川学芸出版)
ニッポン天文意外史1「渋川春海と護持院隆光」(星の手帖 Vol.41)
☆天地明察/ 冲方丁(角川書店)
 
 
 映画も小説も大ヒットしたようですね、私は遅ればせながら昨年ようやく見ました…。そして現在、原作を読んでおりますが、テンポが良く、そしてまた、映画を先に見てしまったためのキャラクターへの先入観がそのままに読み進んでいきます(笑)。創作とわかっていても、なかなか人物像の浮かんで来ない人柄だけに、感情移入できておもしろい作品だと思います。
 

 

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