星と天界の音楽と(星のソムリエのブログ)

フィリップ・カッサールのマラソン・コンサート

 当日配布されたプログラムにカッサール氏のテキストが翻訳されていましたので、転載します。

 それからカッサールのページで掲載しているアルバムジャケットへのサインは、第1部終了後に、お昼に出かけようとブラブラしながら信号待ちしているところへカッサール氏が1人で宿泊先のホテルへ戻る(そこでお昼だとおっしゃてた)ところへ出くわしました。彼も信号待ちしていて、一緒に聴きに来た知人に「ねぇ、もしかしたら…」と指差す方向に目をやるとポツンと信号待ちをするピアニスト。というわけで、路上サインとなった次第です。持ち合わせのアルバムすべてにしてもらったので計7枚!「ふ〜ぅ」とか言いながらもサラサラっと書いていただきました。

 また、幸いなことに私の隣にカッサール氏のマネージャーが第4部から着席されました。最初は隣の席が空席で、もったいないなぁ、などと思っていたのですが、第4部の始まる直前に座ったガイジンさんが何やらカッサールに関する資料を見ていたので「ほら、サインもらっちゃった」と自慢げに見せたところ「私は彼のマネージャーだ」というではありませんか!「どびゅっしぃ」ではなく「どびゅすぅいぃ」という発音の手ほどきを受けたり(笑)、一連のコンサートでの誌評を読ませてもらったり、日本公演のプログラムがペラペラのコピー一枚だったことに憤慨してみたり(もしかしたら入場料の金額を聞いたらもっとびっくりしたかも)と、なかなか貴重な体験をさせていただきました。


【1日4回のリサイタル】

 クロード・ドビュッシーのピアノのための80作品全体を、たった1日のうちに演奏するということは、 むなしいパフォーマンスでも、マラソンでもなくて、どこにも寄港しない恐ろしく長い旅に似ている。この旅は、すぐれて良質で、常に意外性があり現代的な音 色、雰囲気、そして風景にとりわけ富んだ世界の神髄へと誘い、その全ての領域に渡って、我々は一気に手に入れることになるだろう。というのは、このように 膨大な作品が集められても、そのなかには、あまり重要でない作品とか、脆と称されるような作品は、ほとんどないからである。その音楽語法は、絶えず独創的 で、微妙で、魅惑的で、気品があり音色は、めまぐるしく様々に変わるので、この全曲演奏を回を聴くにつれて、しかも思っているよりもはるかにずっと早く、 種々の感情と感覚に襲われる。それは賞賛、純粋に感覚的な喜び、好奇心、夢に身をゆだねること、気晴らし、メランコリーが入り交じったものなのである。
  このような仕事とそれが示唆するものを、4つの夕べにばらばらに分ければ、半日の冒険的な空間に及ぼす魔力と魅力を確実に損なうことになるだろうし、静止 した時間あるいは、はかない時間の概念、複雑で多層的なリズムの概念、変化し奇妙な、瞑想的で、喜ばしげな音色と状況の概念について、ドビュッシーが実現 した比類なき仕事を十分に捉えることができないだろう。この宇宙を少しでも捕まえるためには逆に、文字通りの意味の、切迫した感じ、少し劇的な技がなくて はならない。全曲演奏会は、4つのリサイタルからなり、最初の3つは休憩なしに行われ、それぞれがひとつのテーマと、ドビュッシーを容易に結びつけること ができる一人の作曲家をめぐるものである。

 最初のリサイタルは「ラモー礼讃」である。この、ドビュッシーが尊敬していた作曲家を とおしてみたものであり、19世紀末と今世紀初頭のフランス人の音楽家たちが忘れたことのない、バロックと古典派の巨匠を称えるものである。2番目のリサ イタルは、ドビュッシーの練習曲の音楽が、あるものにとっては、いかに、突飛で、根源的で、いまだ近寄り難いものであるかどうか、示そうとしたものであ る。それはちょうど、ヴァーグナーの音楽が、当時そうだったのと同じだ。ヴァーグナーの場合には、不思議なことだが、ドビュッシー的な和声と音色の探求 が、すでにはっきりと聴き取れるのである。
 ガブリエル・フォーレは、当時の若い世代全員によって尊敬され、評価された 師であった。ドビュッシーは、ことに初期のピアノ作品において、彼から多くのインスピレーションを受けていたとは言え、師を作曲家としては高く評価してい なかった。しかしフォーレは、若き狼たち(とりわけドビュッシーやラヴェル)が受けている評価を打ち砕こうと躍起になり、アカデミックで公認されていた厳 格な作曲家たちに対して擁護したのであった。最後にショパンだが、彼は常に、ドビュッシーが殊に敬愛する対象であった。彼は、ショパンを素晴らしく弾いた し、ジャック・デュラン社でピアノ作品を再版したのである。2人の作曲家の間には、ペダルの使用法や、音色の震え、段階づけられた音色プラン、それらに似 たようなカンタービレの着想といった、ピアノに適応されたとても想像豊かな感覚的な処理において、多くの関わりを設定することができる。




【ドビュッシーの24の前奏曲】

 「前奏曲集第1集」は、非常に短いあいだに、つまり1909年12月から1910年2月にかけて作曲され た。ドビュッシーは、通常、作品を仕上げるのに時間がかかるのだが、幾つかの作品は、続けて、毎日1曲ずつ作曲した。「第2集」は、おそらく、より完成度 が高く、常にあるレヴェルのインスピレーションと洗練を備えており、もっと時間がかかった(1910−1913)のだが、このときドビュッシーは平行して 『遊戯』と『聖セバスティアンの殉教』に取り組んでいた。作曲家、そしてリッカルド・ヴィニエス(ドビュッシーの偉大な擁護者であり演奏家)、フランツ・ ライビッヒ、ノラ・ドゥルウェット、ジャヌ・モルティエといったピアニストたちは『前奏曲』を数曲のグループに分けて、1910年5月から12月のあいだ に初演したのであった。
 これらの『前奏曲』によって、ドビュッシーはバッハ(『平均律クラヴィア曲 集』の)とショパンの延長上に位置づけるならば、そして、もっとより暗示的な観点から見れば、ヴァーグナーの延長上に位置づけるならば、既存の形式と和声 上の論理と徹底的に断絶すること、ピアノの持つ響きの可能性を大胆に探求すること、そして『映像』の第2集にすでに明らかだった「論証による展開を嫌悪」 (ジャンケレヴィチ)すること、それらのために、今日、いまだに、24の『前奏曲』の大半は、ときには晦渋とも言えるほど、きわめて現代的なものになって いるのである。
 その上、誤った伝統を守る演奏家によって維持されてきた、奇妙な一種のドビュッシー風のぼかし≠ニ、モネ、ルノワール、ドガ、あるいはターナーのよう な先駆者といった、印象主義運動の画家たちは、長いあいだ、複雑に関係付けられていた。確かに、両者は、ある時期、互いに関心を持っていたし、彼らの絵画 の持つ謎めいた、虹色に輝く、無定形の、あるいはヴェールがかかったような性質によって、この若い作曲家に影響を与えさえしたのである。このように考えて しまうと、1910年頃のパリに、未知のリズムと色彩がどっと現れたということを軽率にも忘れることにある。ルオーの悲劇的な感覚と筆致の厚み、キュビス ムの父、ピカソのバレエへの熱中と溌剌とした眼差し、マティスの緊張感のある新鮮さ、ストラヴィンスキー、ファリャは言わずもがな、そして極東の音楽をも パリは見出した。これらすべてを、当時、自分の音楽を手中にしていたドビュッシーのように、鋭い感性を持っていた人が、実際、見逃すはずはない。
 ドビュッシーが、『前奏曲第2集』全体を、3段の譜表に(冒頭のページに は、実際には使わなかったものの、4段の譜表さえ使って)書いたという、一見重要ではない事実が指し示しているのは、オーケストラへの拡大という構想だけ ではなく、空間、時間、音素材が混ぜ合わされて、年を経るにしたがって、いまだかつてないほど、豊かな内実を持ち、複雑になってしまったので、あまり狭い 枠組みの中で組織し、明らかにすることができなくなったという意識なのである。
 パロディー気分、異国趣味の内容、軽やかな気品だけでなく、最も活気のある 前奏曲の才気も、第1集、第2集の内部では、テンポの遅い前奏曲のあいだに、息継ぎのためのゾーンのように分配されている。遅い前奏曲は、実は、この2つ の曲集の中でも真に天才的な傑作だ。瞑想したり、精神を集中したりするのに都合のよい、見捨てられた、音のない広大な空間というべき、これらのページは、 孤独と失望が刻印され、希薄になった雰囲気を醸し出している。時の経過は、ここでは、ほとんど感知されない。鳴り響く低音と、規則的な感覚のゆったりした 波動のみが神秘的な呼び声のように深い淵から訪れる。終焉する時間、衰退、廃墟という固定観念=iH.ハルブライヒ)に突き動かされて、ドビュッシー は、消え去った風景と過去へ、病んだ眼差しを向ける。「デルフォイの舞姫」、「沈める寺」、「枯れ葉」、「月の光がそそぐテラス」、「エジプトの壷」にみ られるように。また、「西風の見たもの」の破壊するような、否応なしにはじけるような音、「野を渡る風」の意地の悪い、凍った風、「ビーノの門」の内に秘 められた暴力、「花火」の唐突にひけらかされた、いわれがないかのように装ったヴィルトゥオジティ、それらには、諦めたような、あるいは息詰まるようなと ころがある。
 奇妙なことに、ドビュッシーは、どちらかというと暗い音楽全体を、明るくし ようとするとき、常に、外的な要素、たとえば道化のエピソードや、古臭い英国系の魅力を頼みにする。形式と、表現と、色彩感の上での類似によってあたかも 双子の兄弟のような、第1集の「亜麻色の髪の乙女」、第2集の「ヒースの草むら」のみが、おそらく、穏やかなドビュッシーの素朴で、控えめな反映なのだろ う。



【組曲と舞曲】
「子供の領分」と2つの舞曲(「レントより遅く」と「小さな黒人」)を明らかな例外として、プログラム第3部の作品は、1903年より前に書かれたものである。しかしながら『ベルガマスク組曲』(1890)や『ピアノのために』(1894-1901)の中でピアノにはっきりと表れてきた個性のあらゆる痕跡にもかかわらず、奇妙なことに、私たちは、同時代の「忘れられた小唄」(1887)、「華やかな饗宴」(1891)、『弦楽四重奏曲』(1893)、『牧神の午後への前奏曲』(1894)のような、きわめて質の高い着想による、非常に入念に作り上げられ、臨機応変で、徹底して斬新な(したがって過去の拘束から解放された)語法による傑作からは、ほど遠いところにいる。
 実際、ショパン、シャブリエ、ビゼー、フォーレ、ヴァーグナー、ボロディン、ムソルグスキーの影は、徐々に、姿を現すが、そこから受けた影響の証というよりも、ドビュッシーが、好みの楽器を使って、音色、色彩の震え、時間及び大胆で、厳格な調性から開放された和声の展開に関する革新に取り組むのに、事実上、遅れをとったということの証なのである。
 18際の若者が初めて口篭もりながら語った「ボヘミア舞曲」は、スラブ風のひらめきによる作品で、ドビュッシーの擁護者でもあるフォン・メリック婦人によってチャイコフスキーの判断に委ねられた。“ここでは、いかなる思考も深められていない。そこには形式が欠けている”『くるみ割り人形』の作者はこう答えた。確固とした「マズルカ」(1885)は、ショパンの珠玉のような作品への少し冴えない礼賛だが、唐突な感じの跳躍と幾つかの大胆な変化は「ロマンティックなワルツ」(1890)の個性となっている。「スティリー風のタランテラ」は、ピアノのための作品では類型に則った、最初の独自のものであり、快活でおしゃべりなスケルツォの途中で、「マスク」を予告するような、和らげられた和音の複雑な結びつきが、宙づりになったように聞こえる。
 その自由な調子と親しみやすい題材によって(『前奏曲集』の最後を別にして華やかな部分はない)、『ベルガマスク組曲』は、転換期と言えないまでもひとつの段階を記している。全体は気まぐれで、幻想と急激な変化が走り抜けるようなこの作品は、様々な形式と旋法と、以前使われていた音響を真似て、巧みに繋げたものである。「月の光」は、少し違って、そのきらめく詩的な書法によって、「喜びの島」、「水に映る影」、「スケッチ帳より」を明らかに先取りしている。繊細でのんびりした、4拍子の「パスピエ」は、同じ名前で、3拍子による昔の快活な舞曲とは何ら共通点がないということがわかるだろう。1894年から1896年にかけて考えられ、1901年に出版、リッカルド・ヴィニエスによって初演された、力強い組曲『ピアノのために』は、対照的に、名人芸的でオーケストラ風の側面を示しているが、それが作品全体の評判を上げることになった。古典的な形式により、3曲のおのおのが、創意工夫を懲らした書法によって際立っている。ときには離れた完全和音の並置、平行4度、平行7度、9度の連続(当時では、全く新しかった!)、掛留音の繊細さ、主題の部分的再現、リズム形の多用さといった書法だ。「前奏曲」の執拗な連打の後に、「サラバンド」の荘重で、胸をさすような表現力が続くが、これはラヴェルによって1903年にオーケストラ曲に編曲された。「トッカータ」は、元気いっぱい、まばゆいばかりの情動曲であり、クープランやスカルラッティを筆頭とした、かつての巨匠を思わせるようだ。
 “繊細な妖精の小さな王国”(H.ハルブライヒ)といわれた『子供の領分』は、ドビュッシーのピアノ作品の中で、2つの『映像』と24の『前奏曲』の間に置かれた挿入句のようなものだ。『映像』と『前奏曲』は、『ペレアスとメリザンド』とともに、国際的な栄誉へと大きく前進したのだが、真に理解されたわけではなかった。ドビュッシーが、1908年には3歳だった自分の娘、シュウシュウに抱いていた、ひたむきな愛情が、この細密画のような作品の組曲をもたらし、それは、シューマンの『子供の情景』や、フォーレの『ドリー』、ムソルグスキーの『子供のころの思い出』の、脈々とした流れの中にある。諧謔、いたずら、視線のゲーム、囁かれた言葉、メランコリー、そして最後のピルエット、それらが、うまい思いつきや、楽器の洗練した使い方を集めた花束の中で結び合わされる。ドビュッシーは常に、同時代の音楽的な新機軸に耳を傾け、滑稽な「ゴリウォッグのケークウォーク」においては、西洋のクラシック音楽作品に初めて、ジャズのリズムと雰囲気を同化させた。この曲の中には、さらに、ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』のパロディー風引用が滑り込ませてあるのだ!
 「小さな黒人」(1879)は、おそらくは旋律家、シャブリエに一暼をくれつつ書かれた、「ゴリウォッグのケークウォーク」のより手っ取り早い代用品のように見える。1910年には、ドビュッシーは、“私が思いを馳せている麗しい聴き手たちが出会う数え切れないティー・タイムのために、カフェレストラン風の”ロマンティックな「ワルツ」を作曲した。私たちは、“きわめてテンポルバートで、やわらかさをもって、情熱的に”トゥルーズ=ロートレックとルノワールの郊外レストランの中間の雰囲気の中に浸っているのが、突然にわかるのだ。
(恩地元子訳)



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