星と天界の音楽と(星のソムリエのブログ)

前奏曲集(Preludes Livre I / Preludes Livre II)
 ドビュッシーの代表作とも言える前奏曲集は、まず第1巻が1909年12月〜1910年2月までの、わずか4ヶ月間で作曲されました。その直後に第2巻に取り掛かりますが、完成したのが1913年と、第1巻のそれと比べると、ずいぶん長い時間を掛けています。これには「平行して他の作品も手がけていた」という理由もあるようです。

 ドビュッシーは、この曲集のそれぞれの曲に対し、譜面の末尾にカッコをつけて余白に曲名を印刷しました。これは曲名にとらわれずにリスナー、もしくはピアニストたちに自由な発想で聴いて(弾いて)欲しいということから来ているのではないでしょうか?

このページでも、それにならって曲名は私の勝手な解釈のあとにカッコをつけて記載することにしました


前奏曲集第1巻
1.ゆっくりと荘重に
 ショパンを意識して作曲された12(24)の前奏曲集のオープニングを飾り、すでに彼の作品群の集約的な内容が発揮された曲です。ドビュッシーのギリシア神話趣味が全開した作風で、まさにデルフォイ、デルポイの神託で神にささげる舞を披露する乙女たちが浮かんでくるようです(デルフォイの舞姫)
2.中庸の速さで
 聴き手の自由な解釈をさせてもらうなら、1曲目の乙女がまとった、この「ヴェール」は、次の曲で吹かれる「野の風」に吹かれ、その「音と香は」夕暮れのアナカプリの丘にめぐるのではないでしょうか(ヴェール)
3.活発に庸
 コントラストが難しい、早いパッセージが乙女の持つヴェールをいたずらに巻き上げるようです(野の風)
4.中庸の速さで
 まさに印象派の画家が題材に選んできそうなタイトル。私もどれだけ想像に羽をはばたかせて映像を思い描いたことか(音と香は夕べの空にめぐり来る)
5.きわめて中庸を得た速さで
(アナカプリの丘)
6.かなしげにゆっくりと
 タイトルと楽想があいまってイメージ(映像)的な曲です。子供の領分で描かれた雪景色(雪が踊っている)、夜の闇に続く何者かの足跡。シンセサイザーにアレンジした冨田勲は「水墨画のイメージ」と表現していましたが、私には遠野物語の世界が連想されました(雪の上の足跡)
7.活発に騒然と
 ゼピュロスでしょうか。ピアニストによっては激しい怯懦の連続で、うなり声まで聞こえてくる曲です。西風も突然終わりを告げ、牧歌的な風景の中、乙女の髪を優しくなで始めます。(西風の見たもの)
8.きわめて静かで優しく表情豊かに
 前奏曲集中、最も美しい対比を見せる場面です。どの解説にも書いてありますが、この曲の歌曲も作曲したようで、是非聴いてみたいと思うのは私だけではないでしょう。(亜麻色の髪の乙女)
9.中くらいの活発さで
 表情の激しい曲で、まるでイタズラしに来た妖精の振る舞いのようです。そしてはしゃぎすぎたか、突然力つきます。(邪魔の入ったセレナード)
10.深い静けさのうちに(やんわりと鳴る音の海の霧の中で)
 フランスはブルターニュ地方に伝わるイスの伝説。この1曲だけの著作を呼んだことがありますが、神秘的な和音の開始から、聴き手は霧(もしくは水煙)の中に浮かび上がる寺院を目の当たりにします。ギリシアの神殿を思わせる建造物。全集中、もっともポピュラーであり、ドビュッシーの代表作にあげられる1曲です(沈める寺)
11.むら気で軽快に
 神秘的な曲のあとに、早弾きの小品。性格的には「邪魔の入った〜」と同じ主人公でしょうか。(パックの踊り)
12.中庸の速さで(ぴりぴりした神経にユーモアを加えて)
 前曲に引き続き妖精たちのミンストレル。はしゃぎすぎて疲れ果てた、そんなだらけた雰囲気に溢れています。(ミンストレル)
前奏曲集第2巻
1.中庸の速さで
 まるで世界の始まり。カオスの中に紛れ込んでしまったような感覚。今までのピアノ音楽にはなかった世界の広がりに、当時の聴衆たちは困惑したんじゃないでしょうか。ドビュッシーの夜の音楽は、続く第2曲への受け継がれてゆきますが、新感覚の音楽としてふさわしい幕開けです。それにしても美しいタイトル。
 
ピアニストたちにとっては、第2巻こそ弾けてドビュッシー弾きみたいな考えがあるのか、コンサートで取り上げられるのは第2巻のほうが多いようです。(霧)
2.ゆっくりと愁いのいろをうかべて
 混沌としたカオスが治まりをみせ、時が動き出してゆきました。なかなか進まない展開、もったいぶった和音。彼はというイメージは浮かびませんが、モノトーンのさみしさを感じます。(枯葉)
3.ハバネラの動きで きょくどのあらあらしさと情熱的な優しさとを、だしぬけに対照させて
 ♪ダラ〜ぁン、ダッタ、ダラ〜ぁン、ダッタ… ようやく特徴のある音型が、行進曲のごとく始まります。しかし、それも束の間の夢。(ラ・プエルタ・デル・ビノ)
4.急速かつ軽快に
 突然現れた妖精たち。森の葉の上に落ちる雨の雫のようにコロコロと踊り続けます。(妖精たちはえも言われぬ踊り手)
5.静かに、優しく情感をあらわして
 どこまでもまで続く牧草。私には「荒れている」情景には思えません。昼とも夜とも区別のない時間。1巻2巻合わせて、もっとも好きな曲。譜をひろってみたことはありますが、やっぱり難しい。(ヒースの荒地)
6.ケーク・ウォークの様式と動きで
 ゴリウォーグのような陽気さ。おどけた妖精のパントマイム。最後の和音はまさにケーク・ウォーク。(ラヴィーヌ将軍-おかしな奴)
7.ゆるやかに
 タイトルの情景をイメージしようと思えば思うほど映像がぼやけ、印象派の絵のようなタッチになってしまう。ベルガマスクの月の光は晴天の情景を思い浮かべることができますが、こちらは朧月夜。ケーク・ウォークのリズムがおどけて顔を出すシーンも。第2巻で最初に目が留まったのは「月の光」という星の関係のあるタイトルがついているこの曲でした。(月の光がふりそそぐテラス)
8.スケルツァンド
 パラパラと葉に降り注ぐ雨の雫。地面にたまった水たまりの上で、踊る雨滴。ラヴェルの“オンディーヌ”や“水の戯れ”との関連性が指摘されています(オンディーヌ)
9.荘重に
 なんと突然イギリス国家がパロディで登場!(ピクウィック氏讃)
10.ごく静かにほのぼのと悲しげに
 カノープとは、お骨を入れる容器のことらしく、そのエジプトから届いた壺から霊感を得たという、誠に神秘的な曲です。作曲家は、こういった波動を甘受しやすく、そしてまたそれをメロディに替えることができる才能が、常人よりずば抜けているということなんでしょう。全集を通して、ギリシア神話に通じるアルカイックな雰囲気は、もう第1巻の1曲目や2曲目と、ずいぶん異なってしまいました(カノープ-エジプトの土器)
11.中庸を得た活気ある速さで--すこし活気を増して
 全集を通じて、最もつまらないタイトル。しかし、ピアニストたちにとっては、その後に作曲されることになる【エチュード】への橋渡しになるんでしょう(交互三度)
12.中庸を得た活気のある速さで--軽やかに、音の粒をそろえ、遠くで響くかのように
 回転花火のように、めまぐるしく、交互三度との区別がつかないままなだれこみますエンディングでははるか遠くから、フランス国歌(花火)



ミシェル・ベロフ/全集(1970) / 全集 (1994/1995)
 私にとってドビュッシーといえば同郷のピアニストが奏でるミシェル・ベロフの演奏が一番好きです。上のジャケットは、初めて買ったドビュッシーのレコードで、1996年のリサイタル時、サインをしてもらった宝物です。

 一時左手の故障でピアニストとしてのキャリアを中断していましたが、指揮活動の中からピアノ表現を会得したかのごとく、二度目の録音では表現が豊かになったかのようです。多少運指に「辛い」部分も見受けられますが、そんなのファンにとって見れば些細なこと!とにかくベロフの復活劇にドビュッシーとはドラマティックすぎます。彼のデビューもドビュッシーから始まったことを考えると、これ以上ない歳スタートはないのではないでしょうか? 

 ちなみに私が最初に聴いた演奏が、一番上のミシェル・ベロフの演奏です。クラシックの場合、最初に聴いた演奏が基本となるケースが多く、私もご多分に漏れず、です。
ベロフは1970年と、左手故障を克服しての再度取り組んだドビュッシー全集の二種を聴くことができます。前者は、それまでになかったシャープな響きが新鮮な演奏で、これが弱冠20歳のピアニストによるデビューアルバムとは信じられない衝撃を与えた演奏でした。そして約25年後の再録は、シャープさにスケール感が増したようですが、私には録音技術によるところも大きいのではないかと思います。

 EMIのベロフや先輩格のフィリップ・コラール、チッコリーニのアルバムは、どれも音の悪さが目立ち、せっかくのエスプリが台無し、といった感じです。



アルトゥーロ・ベネゲッティ・ミケランジェリ/第1巻(1978) /第2巻 (1988)
 10年というブランクを経て完成した全集。ドビュッシーのピアノ作品の、ひとつの表現として非常に興味深い演奏です。徹底的にピアノの響きにこだわったミケランジェリの表現は独特で、他に例を見ないほどです。それが、今までのドビュッシー演奏に一石を投じた感じがします。こんなドビュッシーがあってもいいのではないでしょうか。 事実、私は「映像第1集」は彼の演奏が一番好きだし、かなわないことでしょうけど、時間を掛けてソロ作品は全部レコーディングしてほしかったと思います。ミケランジェリ似た響かせ方をするピアニストは二度と登場しないのではないでしょうか。


 プロデューサーでもあり、ミケランジェリの友人だったコード・ガーベンの『ミケランジェリ ある天才との綱渡り 』に、ミケランジェリの人となりが綴られていますが、そこにはピアノという楽器への、執拗なまでのこだわりが描かれていて、ピアニストというよりも楽器製造者に近いアーティストだったんだなぁ、と思いました。そのこだわりこそがアーティストとして、ピアノという楽器の最高のコンディションを引き出していたのでした。つまりピアノ製造者にとっても、ピアノにとっても、これほどまでにこだわり、最大限に鳴らしきってくれる演奏者(理解者)はいなかったのかもしれません。

 

マウリツィオ・ポリーニ / 第1巻(1998)/第2巻 (2018)

 スケールの大きなドビュッシー。ポリーニの唸る声、きしむ鍵盤。是非、第二巻の録音を!2013年現在、ライヴではたびたび取り上げられていますが、今もってレコーディングの気配はありません。今のところ「練習曲集」と、この「前奏曲集第1巻」だけがレコーディング・レパートリーとなっています。
音質の観点から考えると、先のミケランジェリが第2巻がデジタルなので、第1巻をポリーニ、第2巻をミケランジェリ、などとプロモーター気分でiPodに入れて聴いて楽しんでいます。

 そんなポリーニも2018年にやっと第2巻がレコーディングされました。カップリングには、息子のダニエレ・ポリーニと連弾『白と黒で』を共演してファンを喜ばせてくれました。

 それにしても、多くのピアニストたちは第2巻のレコーディングに関しては、じっくりと時間を掛けているようですね。ミケランジェリしかり、アシュケナージしかり。



スタンリー・デビッド・ラスリー / 全集(1998)

 1874年製のエラールは、私が知る限りもっとも古いピアノによるドビュッシーです。フランス製のピアノの独特の響きは何度聴いても飽きません。中途半端な全集の前にバリトンによる歌曲の伴奏をレコーディングしていますが(それがピアノソロへと発展したようです)このエラールのピアノを弾いています。



ジョス・ヴァン・インマゼール / 第1巻(1993)

 1897年製のエラールで奏でた「前奏曲集第1巻」2013年現在、インマゼールは自ら組織したアニマ・エテルナとのオーケストラ作品に触手が伸び(2012年にはドビュッシーの管弦楽!)ているため、続く第2巻のレコーディングは行われていません。そんな仕事が残っているにもかかわらず(笑)ソプラノのピオーの伴奏を本人所有のエラールを奏でています。「曲に合うピアノがエラールだった」とのことで、こだわりはないようです。ぜひとも第2巻もレコーディングして欲しいところ。



フィリップ・カッサール / 全集(1990)

 ドビュッシーが愛した、くすんだ音色を生む1900年製のベヒシュタインの音色の前奏曲集。ドビュッシーはこの音色を好んだのか!新たな、というより当時のドビュッシーが見えたような気がします。私が古楽に目覚めたのは、まさにこのアルバムであり、帯に書かれたコピーに衝撃を受けました。「これがドビュッシーの聴いた音」フィリップ・カッサールのデビュー盤となる本作。このあとソロ作品全集へとプロジェクトは進みますが、このアルバムほど私に衝撃を持って迎えられた演奏はありません。今までのスタインウェイなどで聴きなれたドビュッシーの「夜の音楽」が、これほどまでに「夜の音楽」として体験したことはありませんでした。ほとんどカルチャーショックに近い状態です。1曲1曲が生まれ変わり、私たちにとっては新しい音なのに、そのモノトーンにも似た音色は時代を超え、どこか懐かしくもある。まさにドビュッシーが好んだ音色だったのでしょう。このアルバム以降、楽器の違いが、光彩が立体の陰影を生むかのごとく、ドビュッシーのピアノ音楽の表情を変えることを知りました。どの曲も楽譜には書かれていない表情を見せてくれます。



アラン・プラネス / 全集(1999)

 1897年製のベヒシュタインの音色を弾いています。カッサールよりも古いピアノというだけで興味津々。ただ、レコーディングに使われるだけあって保存も良く、「本当に100年前の楽器かなぁ」と思ってしまいます。プラネスは、二度目の全集に挑みましたが、アルバムごとにピアノを弾き分けるてくれています。




アラン・グリーンフィールド / 全集(1999)

 1907年製のブリュトナーを弾いています。ベヒシュタインと同じ音色。やはりドビュッシーが好んだ音色です


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