星と天界の音楽と(星のソムリエのブログ)

 実際に見ることができなかったので、その後、図書館に通ってわかったことがありました。ここ数年旧暦8月1日(いわゆる八朔で新月であり大潮の日)になると出現する不知火は単なる自然現象にとどまらず人為的なことも加わって発生していると知って驚きました。

 この地方では稲の収穫を目前として豊作祈願や予祝に関連し、様々な進物の贈答のある日ということで、武家の食前には新鮮な魚介から野菜がたくさん食卓を賑わしました。 つまりこの地域では、この日が正月に次ぐ重要な祝典の意味を持っていたので魚介がたくさん求められ、干潮となって現れる干潟で多くの人が漁火を持って漁をしていたのです。

 僕が不知火を訪れた年、その日は9月18日に当たるらしく、潮の関係(干潮時)では、9月20日から21日にかけての夜更け、0時からが見頃になる(不知火町観光課調べ。0964-33-1111)と教えてもらいました。旧暦は月の満ち欠けで決められたカレンダーだから毎月1日ならば新月にあたり、月が正反対にやってくる真夜中になると海が干潟に変わるのです。

 しかしその不知火も昔ほど、その姿を見せなくなってきているといいます。それには様々な原因があるらしいのですが、遠野などに伝わる伝承とは違い不知火は自然現象です。だから人の心の問題ではないところがまだ救いなのですが、実はもっと深刻な問題かもしれません。その原因が環境の変化によるものだからです。

 そもそも不知火は遠くの漁火が、この湾の独特の地形から生じる蜃気楼現象によって生じることが明らかにされています。干潮になったときに干潟で魚介類を捕る猟師たちの漁火が水平線に一列になり、明滅を繰り返し様々な形に変化して見える単純な現象。石油が使われる以前は松明の火を使っていたというからその火の形も絶えず変化していたことでしょう。それが明治以降から2つの世界大戦に至るまでの間に石油が使われるようになり、そのため風に弱く火種を消さぬ工夫として囲いが用いられるようになり、それが最初の不知火の減少につながったのです。その後戦争が始まってからアセチレンランプという強力な光源を使うことにより再び盛大な不知火が発生したようですが、その後に起こった環境の変化、チッソ(日本窒素。いわゆる水俣病に発展する)の有害物質の垂れ流しによる環境汚染で八代湾(不知火海)での魚介類を採取する猟師が激減してしまったのです(後述)。

【不知火・人魂・狐火】神田左京著 より(中央文庫)

 立石巌氏が『不知火新考』のあとがきで記しているように、いずれ不知火は絶滅するといわれています。まるで生き物のような言い方をしているが、ただの自然現象とはいえ、意味は同じだと思います。
 

 不知火海の遠浅という地形は干拓に適した地形です。古くは720年の『日本書紀』で景行天皇が見た火が不知火ではないか(実際は「対岸の灯を見ていた」というのが現代の解釈)といわれるよりも以前に、ここでは不知火と呼ばれる以前の怪火が出現していた事実がありました。そんな千年以上も続いた自然現象が絶滅しかけているのです。

 全国で干潟を埋め立てる事業が急ピッチで進められているのを見ると、渡り鳥の越冬地という対抗馬を持ち出して、その開発にブレーキをかけようとしていますが、何も環境の変化で被害を被るのは、こういった動植物たちだけに限りません。僕がいつも気にかけている星の見え方だってレッド・データブックなる類のリストに載せたって間違いではないと思うのです。人間が生きていく上で欠かすことのできない空気の問題なんだから。自然現象とでは語るフィールドが違うのかもしれませんが、ものを失う気持ちには変わりはないのです。

 絶滅してしまう前に自分の目に不知火の姿を焼き付けることが僕の夢なのです。

 以下に不知火の発端となった記述を挙げておきます。



『日本書紀』(720)の中で景行天皇

五月壬辰朔、従葦北発船到火国、於是日没也、夜冥不知著岸、遙視火光、
天皇従詔狭 者曰、直指火処、因指火往之、即得著岸、天皇問其火光処曰、
何謂邑也、国人対 者曰、是八代県豊村、亦尋其火、是誰人之火也、然不得主、
茲知非人火 、故名其国曰火国也。

(訳)

“五月ミズノエタツ一日に、葦北から船を出し火の国に向かった。ここで日が暮れて、夜が暗くて岸に着くところが知れない。はるかに火光が見えた。天皇が船頭に命じていわれるには、直ぐ火のある方に向けろ、よって火を目当てに往って、岸に着くことができた。天皇は火光の処を尋ねて、何という村かといわれました。国人がお答えして、これは八代県の豊村といった。またその火を尋ねられて、これは誰の火かといわれた。しかしその主がわからない。それで人間の火ではないと知れたから、その国を火の国という”



 これを読むかぎりでは景行天皇が見た光は、ちょっと冷静になって考えてみれば、陸の光であることがわかります。しかし後に伝えられることになる史実では、この火がいわゆる“不知火”としての伝説となったという興味深い記述となってしまったのです。

【不知火・人魂・狐火】神田左京著 より(中央文庫)


『高子観遊記』(1720)

天皇問其火光処、国人対曰、是八代県豊村、亦問是誰人之火也、不得其人、
茲知非人火、故名其国曰火国、火国後改作肥国、於今為前後二州
審如史臣所紀、則其国以火為名之故耳、非不知火之言也…

(訳)

“火の国は後に改めて肥の国に作る、今は前後の二州なる、あきらかに歴史家の記した通りだ。すなわちその国は火を以て名としただけだ、不知火をいったのではない”



『水産界427号』(1910)

 島原において当時長崎測候所長築地宣雄氏は、島原中学校長、主席教授とで不知火と呼ばれている火を経緯儀を使って観測した。そして対岸地方の警察署に依頼して、当夜漁船が出たかどうかも調査した。そして不知火と呼ばれていた火がその日に出ていた漁火だということがわかった。しかし昔から有名な島原地方の伝説を破棄することになるので、その結果は発表しなかったのである。


 この1910年の『水産界』の記述は非常に興味深いもので、事実を公表してしまうと“島原地方の伝説を破棄することになる”という意味合いから発表しなかったとしている。そして以後の調査などで、不知火の正体は明らかにされる。


『不知火探検隊』藤森三郎氏

“三時五分陸上観測所より、汝(千鳥丸)の付近に不知火出現す、調査せよとの煙火信号あり、代って直ちに火団に接近すれば、案の如く時恰も大干潮時にて、露出せる干潟上に、左腕に松明またはカンテラを持ち、右手に鳶口を握り、腰に径二尺ほどの桶を曳きたる漁業者が右往左往して、タイラギを漁りつつあるを認めたり。午前四時十分に至り、潮水潟上に上来ると共に、彼らは漸次火を消して船に上り、四時四十分には全く消滅し、僅かに船上に暖を取る暖¥炉火の四五個を見るのみとなり、上げ潮と共に帰途につき、未明に全く帰宅し、夜明けとなれば、一隻の漁船だになし。茲に当夜半午前三時三十分の官庁を中心とし、貝類、主としてタイラギを採集する漁火を指して、不知火となすものなることを確実に証明することを得たり”



『不知火・人魂・狐火』(中公文庫・1931)神田左京

“これは結局不知火の問題ではありません。人間の問題です。不知火の正体見たり漁夫の火。”(P275「14 結論」より)

※2005年に中央公論社から新版が出版されました



『不知火新考』(築地書館・1994)立石巌

 八朔(旧暦8月1日)は、稲の収穫を目前として豊作祈願や予祝に関連し、いろいろ進物の贈答のある日で、武家の食前には魚介から新鮮な野菜がたくさん盛られていた。 つまりこの日は正月に次ぐ重要な祝典の意味を持ち、魚介がたくさん求められ、それがこの海の干潟と十分関連のあったことが推定される。数多くの灯が、この海を飾ったということも、この日のみに出現する不知火なる日と関連があったことが考えられよう。
 不知火の光源とされるものは、石油が使われる以前は松明であり、何の覆いも付けていなかったので明るかったが、燃料が石油に取って代わると火種が消えぬようにということで四角い覆いが取り付けられるようになった。この時点で不知火の明るさが暗く、規模も小さくなったようになったという。つまり明治15年頃から、石油ランプが漁火に使用され、このため漁夫はがん灯を作ってそれで海底を照らしていた。このため、光の強さが衰え、長い間不知火が観測されたことがなく、不知火見物が消滅しつつあった。
 しかし、明治以来石油ランプがほとんどであったのが、戦争が起こったためかアセチレンランプになり、再び盛大化した。
 しかし、水俣病の原因となった日本窒素(チッソ)の進出により、汚染物質の垂れ流しが問題となって、この付近一帯の干潟での魚貝採りが敬遠されたことも手伝って、以後不知火の発生も激減することになる。


『不知火・人魂・狐火』(中公文庫・1931)神田左京と『不知火新考』(築地書館・1994)立石巌を読んで、僕は膝を叩いてしまいました。まさに「目から鱗」というやつ。事実を知ることができて嬉しかったという意味。特に前者は不知火に限らず、日本で怪火と怖れられた狐火、鬼火、人魂、火柱、火の玉、不知火など、自然界における不思議な怪火という現象を徹底的に検証し、化学的実証を試みた科学的古典です。
 よくぞ1000年以上もの間、怪火とされた現象を冷静に紐解き、その結果、様々な事象が結びついて世にも不思議な、そして千年もの時を生き続けてきた不知火を解明してくれたなと!  残念な点を上げるとしたら、その怪火がほとんど過去の出来事になってしまったということでしょうか。さらに言えば、温暖化による温度の上昇が拍車を掛け、最初に書いたように「絶滅」に脅やかされてしまったことです。





昭和52年9月14日(熊本日日新聞)


平成元年8月31日(熊本日日新聞)
 “旧暦八朔にあたる31日深夜、宇土郡不知火町沖の八代海に不知火が現れた。この神秘の火を見ようと、同町の永尾神社周辺には、前夜の30日夜から約8000人の観光客が詰めかけた。
 不知火出現は同日午前1時25分。合図の爆竹がならされると、永尾神社に詰めかけた約500人の人たちは沖合はるかに連なるように点滅するほのかな光に、食い入るように見入った。ことしは「日中は晴天で夜は冷え込む」という不知火出現の条件から見れば天候に恵まれず、不知火の光はかすか。見物客は丸目信行前松合小学長ら、松合小の観測班の説明を頼りに、不知火の姿を追っていた。
 一帯では30日夜から、故事にちなんだ景行天皇の仮装行列や海上花火大会などが行われ、深夜まで車の列が続いた(新聞の記事より)”



“ここに述べた肥後の不知火は不知火海中の鏡海の海水の温度が特に高いことに起因して、毎年八朔の午前二時より四時に至る間に現れ、そのときを違えないのは、この干潟、朝夕、季節、漁法、見方などの条件がそろって不思議な現象が起こることは科学的にも神秘的ではあるまいか”

・下層が冷たい場合の蜃気楼
 光線は上に凸に湾曲するため、像は上にのびて見える。富山湾のものが代表。
・下層が暖かい場合の蜃気楼
 光線は下に凸に湾曲するため、像は下にのびて見える。逃げ水や砂漠の蜃気楼が代表。



『不知火考』(天保6年)中島廣足

 はじめ火の間やや離れて見ゆるをようようその間々に大小の火どもいでて、つぎつぎかずそわりゆくに、暁にいたりて盛なるときは海上一つつらにつらなりて見ゆ。その光また大小のさますべて星の如し。大かた横さま二里ばかりも連なれり。かくていよよ盛なるに、ほどなく東の空しらみて、夜も明けゆけば、その光に気たれて、ようよう火きえゆく。明けたてぬれば、あともなし。



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