関孝和(1637/1642 - 1708) 寛永十四年/十九年 - 宝永五年 |
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内山永明の第二子であるが関氏の養子となった。孝和に実子がなく養子に迎えた甥に不都合があって、関家は断絶してしまっため伝記が不明な点がある。孝和は甲府相綱重に仕え綱重の没後はその子綱豊(六代将軍家宣)に仕えて綱豊が将軍となるや西之丸に入って御納戸組頭を勤め三百俵を給された。新助と称し、江戸時代を通じ和算の第一人者としての名声は高い。数学上の幾多の画期的な業績は他の署に譲るとして天文暦学の上でも多くの優れた仕事を成し遂げた。授時暦を元に貞享改暦を成功させた渋川春海も完全に理解できなかった授時暦の数理をよく理解し得たのは関孝和一人であったと言われる。「授時発明」「授時暦立成」「同立成の法」「天文数学雑著」「四余算法」「二十四気昼夜刻数」など授時暦に関する研究書が多い。当時施行されていた宣明暦が天度に合わないとして非難されていたことからも孝和もまた改暦案作成を志した。しかし改暦は幕閣に後援者を持った渋川春海が、彼に先んじて成功してしまい、関孝和はその名をあげることができなかった。その精神的打撃のためか興和の暦学上の活動は新暦施行の貞享二年で終わってしまった。 |
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