西暦 | 出来事 |
553/欽明14 | 百済へ暦博士の交代要員の要請 |
554/欽明15 | 暦博士 固徳王保孫 来日 |
602/推古10 | 僧侶 観勒 来日。暦本、天文地理書、甲方術の書を献上 |
628/推古36 | 日食の記録 |
645 | 瞻占星台の建設 |
671/天智10 | 漏刻を新台に置き、初めて時の鐘を打ち鳴らす |
675/天武4 | 正月、占星台の建設 |
696/持統10 | 日食の記録 |
以上『日本書紀』による |
西暦(和暦) | 出来事(出生地は現代の地名) |
989/永祚 | 彗星の出現により「永延」から改元。 「永延3年己丑8月8日、改めて永祚(えいそ)元年と為す、彗星天変に依るなり」 (扶桑略記) |
1097/承徳 | 彗星の出現により「永長2」から改元。 |
1106/嘉承 | 彗星の出現により「長治3」から改元。 |
1110/天永 | 彗星の出現により「天仁3」から改元。 |
1145/久安 | 彗星の出現により「天養2」から改元。 |
1549/天文18 | フランシスコ・ザビエル来日。 |
1580/天正8 | 織田信長の地球儀所有(ルイス・フロイス『日本史』より) |
1591/天正19 | 遣欧使節、豊臣秀吉にヨーロッパ製の地球儀を献上 |
1602/慶長7 | マテオリッチの『坤輿万国全図』が中国で出版。※鎖国中に日本に伝わる(年代不明) |
1613/慶長18 | 望遠鏡が伝わる(イギリスから徳川家康に献上) |
1618/元和4 | 元和航海書 |
1639/寛永16 | 渋川春海、京都に生まれる |
1648/慶安元 | 西川如見、長崎に生まれる |
1656/慶安元 | 『乾坤弁説』向井元升、沢野忠庵(クリストファン・フェレイラ) |
1667以降? | 『二儀略説』小林謙貞? |
1675/延宝3 | 康熙14『天経或問』游子六、1680前後日本へ |
1685/貞享2 | 渋川春海の貞享暦が採用される |
1712/正徳2 | 『天文議論』西川如見 |
1716/享保8 | 徳川吉宗、第八代将軍就任 |
1723/享保8 | 三浦梅園、大分に生まれる |
1734/享保19 | 麻田剛立、大分に生まれる |
1742/寛保2 | 乾隆7『暦象考成後編』徐懋徳、明安図。惑星の楕円軌道を紹介。 |
1745/延享2 | 伊能忠敬、千葉に生まれる |
1747/延享4 | 司馬江漢、東京に生まれる |
1748/寛延元 | 山片蟠桃、兵庫に生まれる |
1756/宝暦6 | 間 重富、大阪で生まれる |
1756/宝暦6 | 岩橋善兵衛、大阪で生まれる |
1763/宝暦13 | 綾部妥彰(麻田剛立)、川谷貞六、礒長孫四郎、西村遠里ら官暦にない日食を予報する |
1764/明和元 | 高橋至時、大阪で生まれる |
1776/安永5 | 平田篤胤、秋田で生まれる |
1778/安永7 | 国友一貫斎、滋賀で生まれる |
1780/安永9 | 間宮林蔵、茨城に生まれる |
1823/文政6 | 『遠西観象図説』吉雄南 |
麻田剛立(1734-1799) |
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渋川春海(1639-1715)の没後から19年、豊後国杵築(ぶんごのくにきづき)に生まれる。同じ空気を吸うことのなかった二人ですが、近代天文学の祖といわれる麻田剛立の前任者といえば、渋川春海以外、日本の天文学を継承していた人物はいなかった(ほとんど途絶えてしまったと言えるかもしれません)ようです。そして彼以降の天文学者たちの活躍によって、現在の日本の天文学が発展したのです。 |
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間重富(1756-1816) |
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麻田剛立の門下生のひとり、というより、多くの参考書に書かれているように、高橋至時を含め共同研究者、もしくはチームといった方が的確なのかもしれません。間重富も幕府の命を受けて江戸にまで来ているようですが、商いを営んでいたこともあってその拠点は大阪にあったようです。 |
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山片蟠桃(1748-1821) |
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麻田剛立の元で天文学を学んだ一人。そして、ここから宇宙には地球と似たような惑星がたくさんあり、太陽系のような世界が無数にあると『夢ノ代』の中でとき明かしました。東洋のジョルダーノ・ブルーノと呼ばれるゆえんでもあります。 |
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岩橋善兵衛(1756-1811) |
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江戸時代に商人(魚屋→イワシ屋から岩橋の名をつけたと言う噂も)の家に生まれ、眼鏡のレンズ磨きを生業としているうち、天文をはじめとする自然科学に興味を持つようになりました。易学者・皆川淇園(私の祖先とは関係ありません)などと交流を深めまます。渡来品の研究を行い寛政2年(1790年)頃、望遠鏡を作り評判を得るようになり、多くの天文学者(伊能忠敬ほか)、大名から依頼を受け、現在も各地に残されているようです。 |
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