足立左内(1769-1845) 明和六年- 弘化二年七月一日 (享年77歳) |
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諱は信頭(のぶあきら)、生年の月日は不明であるが、弘化二年(1845)に77歳で死去しているから明和六年生まれということになる。大坂の医師北谷琳筑の子であるが、鉄砲奉行配下の同心を勤める足立左内の養子となって襲名した。麻田剛立の弟子で、高橋至時、間重富につぐ実力者で、寛政の改暦に際し、至時・重富らが江戸に召されたとき、至時のとして江戸に赴き改暦御用を手伝った。寛政九年(1797)十二月御用済となって大坂の元の職に戻った。しかし左内を知る至時の子の高橋景保と間重富は再び左内を暦局に迎え入れるべく運動して、文化六年(1809)ようやく暦作御用に付江戸表へ出府すべき旨を命ぜられ、景保の手附となった。同十年、馬場佐十郎と共に松前に出張を命ぜられロシアとの交渉に携わり、その際ロシア語の辞書を入手し幕命によってこれを翻訳した。景保・重富なきあとは渋川景佑を助けて『新巧暦書』『新修五星法』の撰述を完成した。天保六年(1835)天文方となった。天保の改暦は景佑と二人が命ぜられており、その暦理を記した『新法暦書』も主としてこの2人によって編纂された。また『寛政暦書』の撰述も行っている。
----天文学人名辞典 天文学年表 中山茂編(恒星社)より |
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足立信頭 |
(裏) |