千曲川のスケッチ・2

 中央本線と小海線というローカル線を乗り継いで、文豪島崎藤村が自然とそこに住む人々とのふれあいを『千曲川のスケッチ』に描いた小諸は中棚を訪ねた。2年前の夏にも豊田君と足を運んだことがあったが、ここで見た風情にもう一度触れたくなって、今度は平澤君を誘って行くことにした。彼は文学に精通していることもあり、こういった旅行をするときにはいろいろなことを聞かせてもらえて、僕と違った物の見方を教えてもらえるからだ。

  

 今回の旅行では、二人とも別々にではあるが再訪ということで、特に藤村ゆかりの地を歩くことを目的にしていたわけではなく、ローカル線の気長な旅の終点として小諸を選んだのと、その旅の疲れを癒してくれる中棚荘に泊まりたかったからというふたつの理由だけだった。
 今では小諸でさえ都心から2時間もかければ簡単についてしまうので、なんだか旅行という雰囲気など味わえなくなってしまったから、僕らはあえてめんどくさい行程を通ってわざと疲れて宿に着く方法を選んだ。今の交通網で考えたら時間の無駄かもしれないけど、遠い昔の風景や風情に触れることを考えたら僕らにとってはこれがもっともよい旅程に思えた。それに中棚荘の雰囲気は、どんな疲れでも落としてくれる力を持っているから、6時間近く掛かろうともまったく平気なのである。それよりももっと時間をかけ、とことん疲れて行きたかったというのが本音だ。
 僕は電車のガタゴトという心地よい揺れに身を任せ、曇ったガラスを手でこすりながら車窓に写る雪景色を見ているというのに、その景色の向こう側に中棚荘を思い浮かべていた。
 僕が最初にその宿を訪れたときには『中棚温泉』といって、まだ露天風呂などなかったけど、去年の4月に『中棚荘』に新装されてからは露天風呂と檜のお風呂が作られていた。檜のほうにはリンゴがプカプカと浮いている。

  

 露天のほうは檜と比べるといくらか温度が低いせいもあって、長いことつかっていてものぼせることはない。それに浅間おろしがのぼせそうになる頭を冷やしてくれるから、夜ともなれば、ゆっくり湯舟につかって湯気越しに星空を眺めることができる。いったんこの露天風呂から仰ぐ星空の風情に獲り憑かれてしまうと、たとえ浅間おろしの強烈な冷気で氷点下になろうとも「露天、露天」とつぶやきながら湯舟に足を運んでしまう。
 そんなわけで深夜になってからも露天風呂につかり、頭上に輝く冬の星座たちに眼下に流れる千曲川、静かに眠りについた町の灯りを眺めているのは僕だけだった。人家一軒一軒の屋根には、月の光が降り注いでいるおかげで、まるで雪が積もっているように見えるが、この時期になっても小諸には雪はほとんどなかった。宿の女将さんに言わせると、関東に住んでいる人たちが思うほど小諸は雪国ではないそうだ。しいて言うならば、遠く浅間山の頂に白い帽子がのかっているぐらいで、そこから吹き下ろされる浅間おろしは、想像以上に身を切るような冷たい風になって、静かな小諸の町を吹き抜けていく。 
 明け方近くに目が覚めた僕は、これはチャンスとばかりに「露天風呂から夜明けが見られるぞ」と、隣で寝ていた平澤君の制止と布団の温もりを振り切って、浴衣のまま飛び出した(朝の天気予報では、このときの気温が氷点下9度だった)。
 まだ夜の闇が去りきらないうちから高台にある露天までの石段を、常夜灯の灯りだけを頼りに湯気がもうもうとしている岩風呂を目指した。視界の開けた東の空には昨夜から夜空を照らしていた夜半の明星が、山影から顔を出した明けの明星にその輝きを譲り渡して並んでいる。僕はちょうど枕に良さそうな岩に頭をのっけて仰ぐと、湯気の中に北斗七星が見え隠れしていた。
 夜が色を失い白々と明けてくると、さっきまでの闇の中に木々のシルエットが浮かんで、木枯らしの中で揺れている。その冬枯れした梢の中に輝く明けの明星は、まるで最後のひと葉が木枯らしに打ち震えているようにまたたいて見えた。