四街道というところ

 明日ヘリコプターによる農薬散布があるというので、軽自動車が一台やっと通れるほどの道を走り、山梨のホタルの保護区まで行った。もう飛び交うほどの時間帯ではないらしく、あたりはひっそりと静まり返っていた。市街の照明がどんよりとした空を照らし出し、足下までがハッキリとわかるほどの明るい夜だ。

 僕はハザードを付け、ホタルの姿を見ようと準備を始めた。ほどなくして稲の間や、草の間からホタルが一匹二匹と集まってくるのが見えた。しかしどうしたことなのだろう。ハザードを付けると、たいていその明かりに寄ってきて(中には車の中にはいってきてしますものもいる)、その点滅のリズムに合わせるのに、今日の行動は明らかに違っていた。なんと数十匹のホタルが僕の方に向かって飛んでくるのだ。明日農薬が撒かれることを彼らは知っているのか、僕の体につかまって「たすけて、たすけて」とすがりつくように明滅を始めた。

 ここにいるホタルだけでも連れて帰りたい衝動に駆られたが、そうしたところで殺してしまうことは目に見えている。なぜなら彼らはこの場所が気に入ったから、ここで繁殖しここで暮らしているのだから。うちの庭にもホタルが飛び交っているというなら話は別だろうけど、環境が変わってしまえばどんなものでも死んでしまうのだ。特に弱い生命ほどそれを雄弁に物語ってくれるものはないだろう。

 彼らの願いがほんのちょっとでも天に届いたのか、翌日の農薬散布は台風接近のために延期された。しかし、このまま環境が変わらなければ、たとえ農薬が撒かれたとしても、来年も再来年も彼らの姿をここで見ることができるだろう。すでに何年も前からホタルが毎年ここで飛び交っていることがそれを語ってくれている。

 環境のバランスさえ変わらなければ、素晴らしい回復力を持っている自然界のパワー(治癒力)は、人間の作り出す生産力でさえ遠く及ばない。彼等は環境に似合った新しい生命を次々に生み出す力を持っているのだから。


 ずいぶん前の話になるが(さそり座が宵の南天に掛かる前だったと記憶している)、写真展『四街道の自然』の後片づけや反省をかねて、成山の知人と三人で打ち合わせのために集まったことがあった。

 すでに関東地方は梅雨に入ったというのに、夕方に吹いた風は秋を思わせるような柔らかい風で、夕暮れの空にも筆で掃いたかのような筋雲が幾筋か描かれていた。暗い雑木林からはヒグラシが鳴き始めていた(僕の今年の記憶ではたぶんこれが初鳴きだろうと思う)。
 物井駅から千代田団地に抜ける道には、ほんの一時だけ何十年も前に時間をタイムスリップさせてくれる区間があって、夜遅くなれば女性だけでなく誰もが“臆病風”に吹かれるところだ。僕はその類のものはいっこうに平気なのだが…。

 昼間ここを通ると、取り残されたような数本の木の下に、苔蒸した石碑が鎮座在している姿を見ることができる。この道はそれだけ歴史を感じさせる雰囲気を持っているのだが、いざ周囲に目をやると新築のアパートがあたりを遮ってしまっている。
 この間、この道を通ったときに、その石碑の周りを掃除している古老がいたので、僕はおもわず「ごくろうさま」とおじぎをしたのだが、ちょうどその前をベビー・カーを押したヤンママと目があったものだから、彼女は不思議な顔を向けてくれた。何だか、このギャップが時代を象徴しているような気がしてならなかった。

 打ち合わせが終わった頃、縁側の窓から外を見ると、室内の蛍光灯とか、知人の姿が映っていて良く見えず、鏡のように室内が映し出されていた。廊下に出て両手を使って邪魔な光が入ってこないようにと頭をガラスに近づけて再び夜を覗いてみる。目の前にはさそり座が林の上に横たわっていたので、宵の青空がそのまま夜更け近くまで変わらずにいたことを教えてくれていた。
 もう夜も遅いというので「おひらきをしよう」ということになり、三人で庭に出て星を見ようとしたが、玄関や室内灯の灯が異常と思えるほどに眩しく、それに気づいた任海さんが消灯してくれた。まだ目が暗闇になれていないせいもあって、星の光が目の中に飛び込んで来るには時間が掛かりそうだと思い、先へ歩いてゆく二人の後を付けようとした。しかし一歩一歩足を前に出して進むのが困難なほど真っ暗だ(とはいうものの、二人ともホイホイ先に行ってしまったが…)。

 だんだん目が暗闇になれてくると周囲はもちろんの事、夜空からも星々の光が目の中に飛び込んできた。さっき部屋の中から見ることのできたさそりとは思えないほど、心臓にあたるアンタレスの赤々と燃える姿を始め、暗くて小さかった他の星たちも威張っているように輝いている。ギリシア神話の中で、剛勇無双の勇者オリオンを刺し殺した功労で「俺様はここにいるんだ!」と言わんばかりの表情をしているようだ。

「ここの芝生でねぇ、ときどきゴザを敷いて息子と二人でビールを飲みながら星を見てんの」表情まではわからなかったけど、その声からは幸せそうな知人の表情がうかがえる。もう一人は「あぁ〜、田舎に帰っているみたいだなぁ」と、感慨深げにつぶやいている。僕は僕で「夏の大三角がこうで、さそりがああだから、う〜ん、あれは天の川かもしれないなぁ。そうだ、あれは天の川だ」と、好き勝手に星座の間を歩き回っていた。三人とも、まったく別々のことを口々に話していたが、この風景を見て同じ事を考えていたんだろう。「ずっとこの風景を残したい」と。まさに、今僕らがやり始めた作品展が、その第一歩になろうとしている。

 東の空では、次の季節の星座たちが自分の出番を控えて、登場するときの輝き方の練習をしている。時間は星の動きに合わせてゆっくり動き、もうすぐ時計の針が0時を指そうとしていた。