屋久島

 鹿児島空港からYS-11型プロペラ機で約40分飛ぶと、九州最高峰の宮之浦岳を抱える屋久島に着く。海岸からいきなり険しい山容を見せるため洋上アルプスと言われることもあるが、飛行機の窓の右に屋久島、左に種子島が並ぶと、いっそうその形容がふさわしく思えてくる。

 「屋久島に行きたい」と思うようになって8年。特に樹齢が7200年(異議を唱える学者もいるようだが、3000年は確実にたっているという意見が一致しているという)の“縄文杉”の姿を写真集か何かではじめて見たとき、たかが印刷物の姿に対してでさえ畏敬の念を感じ、自分にとっての宿命とでも言おうか、「行かなければならない」という思いがした。そして写真に向かって「待っててくれよ」と思わずにはいられないほど、この杉の、木とは思えない姿に惹かれてしまったのだ。

 そもそもこの“縄文杉”との出会いがきっかけになって、僕は山登りを始めたわけで、いつか会うときのために、訓練のつもりであちこちの山を登るようになった。それでもガイド・ブックなんかを読んでみると、決して楽な行程ではないようだし、「これは自分にとっての人生の節目に行こう」と、なかなか計画を立てないでいた。それが4月の中頃になって会社でのゴールデン・ウィークの日程も決まり、なんとなく頭の中にモヤモヤと「屋久島〜縄文杉〜夢が実現〜その日も近い」という図式が浮かんでは消えるようになってきていた。半ば冗談のつもりで航空会社に連絡してみたところ飛行機の席は空いているという返事をもらい、まだ予約も準備もしていないのに心は屋久島に飛んでいった。

 1993年12月9日、日本で初めて白神山地と共に『世界遺産条約』に認定されたこの島の原生林(Virgin Forest)を育んできたのは、「ひと月に35日雨が降る」という雨。僕にとりつく“雨男”はここでもその威力を発揮し、初日のヤクスギランドと、二日目の白谷雲水峡は土砂降りの中で原生林を歩いた。それでも決していやな雨というのではなく、何だか雨の中でじゃないと本当の姿が見られないような気がして、それほど苦にはならなかった。それにこの雨がこの杉を育て、森を育んできたことを考えると、たった今自分がその中にいて、生きている森を実感できるという瞬間を目の当たりにできると思うと「あめあめふれふれ」だ(半分やけだったような気がするが…)。水をたっぷりと含んだコケも生き生きとしている。まるでこの島全体がコケで覆われているかのような錯覚さえ起こしてしまう光景を何度も見た。

 ここでは樹齢が千年を越え、標高千メートル以上に位置する杉を“屋久杉”と呼び、数百年の杉を“小杉”と呼んで区別している。ヤクスギランドや白谷雲水峡で出逢った紀元杉や弥生杉は樹齢が三千年。言葉を失った。しかもあれだけの巨木でありながら、手前5〜6メートルぐらいまでは全然気がつかず、雨で煙る森の中に突然現れるのだ。まるで目の前に立ちはだかった大岩か壁のよう。そして固有名詞のついた杉はどれもこれも木とは思えないような奇妙な姿をしているので、その姿に「何かの精霊が宿っているのでは?」と、思わずにはいられなかった。

 江戸時代から「屋久杉は樹脂をたくさん含んでいて腐りにくい」と評判が高く、伐採が盛んに行われていたが、利用価値のない不良僕は森に残されて今に及んでいる。カール・セーガン流に言うならば、「これらの巨木の奇妙な姿は人間が作り出した」と言うだろう。篩にかけられ、不良木であったが故に生き残ることを許されたのだから。

 1996年5月9日午前9時15分。7200年目の出逢い。8年前に初めてこの縄文杉を写真集で見たとき、彼はそこからいろいろなことを語りかけてきてくれた。だから一対一で対面したらもっと多くのことを語りかけてくれると思っていたのに、チラッと僕に目をやっただけでまた目を遠くに見据えて黙ってしまった。僕が足下でウロウロしながらシャッターを切り続けていたのに、何か(当然僕ら人間ではなく)がやってくるのを待っているのか、彼は無表情に遠くを見つめているだけだった。
 縄文杉に関する本を読むと、「悲しんでいる」とか「寂しがっている」とか書いてあるけど、どういう訳か僕には何も感じられなかった。人間が考えるところの感情を超越し、彼は『無』の境地にいるようだった。人間の短い一生ではたどり着くことのできない『悟り』を切り開いてしまったのかもしれない。
 僕の生まれるずっと以前からここに存在し、僕が死んだあとも存在し続けるだろう。彼の時間の感覚で僕の一生を計ったら、まばたきぐらいの瞬間はあるだろうか。そんな縄文杉の前では、どんな人間も自分の存在の小ささを感じるに違いない。
 縄文杉は昭和41年、当時屋久島の上屋久町の観光課長をしていた岩川貞次氏によって発見され、昭和42年、つまり僕の生まれた年の朝日新聞(1月1日付)によって全国に紹介された
 自然が作り出した偉大な造形物を目の前にすると、どうしても心が哲学的に動いてしまう。7200年という気の遠くなるような時間の中で、彼はどのような『時』を見続けてきたのだろう。
 そのうち喚声を上げながら登山者がたくさん登ってきたので僕はその場をあとにしたが、振り返ると足下に群がる登山者が小さく見えた。

 途中にあった小杉谷の空き地には、小学校の校舎が建っていたであろう囲いや階段、それに理科室にあったような水色のタイル張りの流しだけがポツンと残されていた。ここでは千年以上生き続けている杉はざらにあるのに、人間の作ったものはその中でさえ二十年と保たずに何も残されていない。昨晩、民宿で見せてもらったビデオには、その二十年前の小杉谷の人々の生活が映し出されていた。誇らしげに杉を伐採する人、それを運び出す人、学校に通う子供たち、給料日にトロッコに乗って麓に下りてゆく女性たち…。わずか二十年前にそんな日常生活がここで繰り広げられていたなんて、この風景からは想像もつかないほどになってしまっている。
 この山間にぽっかりと空いた空き地の青空に雲はなく、耳を澄ましてもときどき風がどうっと鳴って木々をゆらしていく以外、なにも聞こえてこない。昨日見たビデオの光景をなんとか思いだそうとしたけど、明るい青空の下では見ることはできなかった。

風がまたどうっと鳴った。


スクラップブックアルバムの1ページhome(一番星のなる木)

1996年12月20日に亡くなったカール・セーガン氏にこの話を捧げたいと思う。