聖ローレンスの涙

 毎年8月12日〜13日頃をピークに“ペルセウス座流星群”というのが活動する。いつもなら亀崎とかの近所で見ることにしているのに、日々見づらくなるこの辺りの星空に嫌気がさして、とうとう今年は市内を抜け出すことにした。
 遠くから聞こえてくる花火の音や、祭囃子の音につられて外に出てみると、すでに頭上には“夏の大三角”があった。そんな星空を見上げていると、時々隣家の屋根の上の方が色とりどりに染まり、かすかに火薬の臭いが漂ってくる。僕は花火が賑やかに夜空を飾りだし、近所の人が夏祭りに出かけるのを横目に出発の準備を始めた。僕にとっての夏の花火は、音だけでも楽しめるから、特に手を休めて鑑賞する必要もなく、聞いているだけで十分「夏らしさ」が味わえると思っている。
 しかし地元の花火は規模が小さいし、なかなか連発もないので、いつ終わったかわからないこともしばしばだ。だからしばらく音が聞こえないと、気になってそのときばかりは夜空を仰いでしまう。そして「もう終わり?」と、思わせておいてから、またドォンと上がったりするので、それを合図に再び準備の手が動き出すといった具合。
 そんな花火もようやく終わると、しばらくはその余韻を惜しむかのように団地内にはまだ花火の臭いが残っている。そんな祭りの喧騒のなか出発したのに、目的地である養老渓谷に着いたのは夜半近かった。さっきまでの祭りの騒々しさが耳に焼き付いているので、こんなに静かな所にやってくると、まるで別世界のような気がして、なんだか落ち着かない。それでも、しばらく星座たちの姿を静かに眺めていたら、僕の心をなだめるように天界の物語を語りかけてくれたので安心することができた。

 “ペルセウス座流星群”のことを西洋では“聖ローレンスの涙”と呼んでいる。これは7世紀頃に殉死したローレンスという聖者の死を惜しんで、星空の流す涙が流れ星になって現れるといい、ローレンスの殉死した日(8月10日)の近くに現れるためにこう名付けられたという。今では殉死したローレンスにではなく、失われつつある自然や争いの耐えない世界に対して、星空が嘆き悲しんでいる涙なのかもしれない。きっと天界から見た地球は、昔ほど青くないんだろう。
 養老渓谷付近は、県内でも星空の最も暗いところで、隣にいるはずの豊田君の顔さえわからないほどだ。流れ星を待つ間の世間話も一通り出尽くしてしまうと、二人ともしばらくは黙っている。豊田君の存在を感じるのは、蚊を追い払う音とか蚊に喰われたところをボリボリ掻く音なので、お互いそんのことをしては吹き出していた。
 それにしても、ここの星空はなんて美しいんだろう。まるで朝露のたまった葉の先についた雫が、今にもこぼれ落ちそうにうるうると瞬いている。そんな中、たまりかねるようにして、ポロンポロンって流れ落ちていくもんだから、「あれっ?今あそこの星が落ちたんじゃないか?」って、本気で思っても不思議な気はしなかった。
 虫たちが奏でるメロディが子守歌になって、夜半過ぎにはようやく町も眠りについた。星空はすべてを包み込み、優しく見守ってくれている。僕らは安心して地面に寝っころがり、自然の一部になっていることを大地の温もりから確かめる。大自然の懐に抱かれていると実感できる瞬間だから、星見物はこれに限る。そして、時折耳に当たるそよ風の音が、ぼくには星たちが天界の話をささやいてくれているような気がしてならない。