「雪が降っているときに傘なんかさすなんて本土からきた人ぐらいだからな」と言って、ホテルから出かかった僕を呼び止めたのは、夜勤明けでこれから(斜里へ)帰るところという人の声だった。
僕はまた「危険だから出ちゃなんねぇ」とか何とか言われるのかと思っていたら「どこまで行くんだい?」と言う。だから僕は「ええ…写真を撮りにその辺をブラブラ」と答え終わる前に
「流氷の上を歩きたくないか?」おじさんが僕の心のうちを見据えたようなことを言うので、何の不信感も抱かぬまま即座に「ええっ!?歩けるんですかっ!?」と次の瞬間にはおじさんの車の助手席に乗り込んでいた。
アイスバーン状態になっている坂道を、まるで恐れることなく降りて行くと、昨日目にした光景とはまた違った海が…、海というよりも大雪原が広がっていた。
網走では想像していたような雪も、めぼしいモノ(フクロウをあさるためのお土産屋)も何も無く時間は足早に通り過ぎてしまった。何をする暇も与えられないまま1泊目の知床行きのバスに乗り込まなければならなかったこともあって、「この時期はもう雪の北海道や流氷は遅すぎるのかもしれないなぁ」と思った。
雪解けの町を散々歩き回った疲れが出たのか、バスが市街から離れてまもなく、心地よい振動に誘惑されて「目に焼きつけよう」と思っていた光景も追わずウトウトしてしまった。さらに疲れきった車内の雰囲気に促されてグーグーやっていると、にわかに車内がざわめき始め、ぼんやりとした頭で車窓を追うと左手には流氷を浮かべたオホーツク海が迫っているのが見えた。ただ、僕が想像していたような、海上全体を埋め尽くすような姿ではなく、その光景は白一色に過ぎなかった北海道の世界にもこんな色にあふれていたのか、というようなカラフルなものだった。
夕暮れ色に染まる空のキャンバスは水平線でオレンジに染め、上に行くほどだんだん緑に筆を変え、それから青、群青色へ。気をつけて見れば東の空には星が見えていたかもしれない。海は既に真っ黒な口をあけ夜の帳が降りてしまったようだったが、ところどころに浮かぶ流氷は空を染めたパレットと同じ色を使っている。
時間にすればほんの一瞬に過ぎない光景を見て、白一色しかない「白黒の冷たい世界」と思いこんでいた北海道にも、白一色だからこそ可能な、天候によって実にさまざまな色を見せてくれるんだなぁと思えて嬉しかった。ただ残念なことに「右の斜面に鹿がいまぁ〜す」と説明してくれるだけのバスの運ちゃんは、いつの間にやらできた知床のホテル街の中に滑り込むようにハンドルを切ってしまったのである。
夕食(ちゃんちゃん焼き)を待つ間、このまま知床を見ずに明日の朝早くまた何も無い網走へとんぼ返りしなければならなかったので、思いきって先ほどの幻想的な光景を見るべく歩いて山を降りることにした。
すっかり夜の衣を着た西の空は氷平線とも言うべき所に果てを下ろしている。夜空は四街道で望むことすら出来ないような高山で見るような澄んだ色だ。バランス良く半分に切りとられた上弦の月がオリオン座の上にかかり、遠い昔、人から人へ語り継がれた神話の情景を思い起こさせた。この雰囲気、今にも凍ったような空気の音が聞こえてきそうだ。遠い星空から聞こえてくる星の瞬きは氷の音楽を真似ているのか、それとも自分たちの物語を歌っているのか。空気が冷たければ冷たいほど僕のそばにいてくれるような気がする。そのまま氷に覆われた海に目を移せば、まるで月世界にでも来てしまったかのような静寂をこの光景に響き渡らせていた。