奥入瀬渓流
 澄んだ東北訛りで「青森の〜」という声を聞いたとたん、僕はこの10月に歩いた奥入瀬渓流に舞い戻ってしまったような錯覚に陥ってしまった。奥入瀬は焼山でお世話になった民宿南部屋の女将さんからの電話だったからだ。大晦日で忙しいはずなのに、わざわざ電話を掛けてきてくれたのであるが、電話の向こうはすでに雪国なんだろうか、声が澄んでいるからかもしれないけど、冷え冷えとした雰囲気が伝わってきた。

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 僕が青森をまわっている間はずっと曇り続きで(まぁ、ここにくる前は下北半島を歩いていたから、なんとなく曇天でも似合ってはいたが…)、青森駅から十和田湖行きのバスに乗り込んでから、ようやく青空が顔を覗かせてくれるようになった。
 バスは十和田湖行きの最終だったこともあって、一緒に乗り込んだ乗客も少なく、どことなく車内の雰囲気も疲れ果てているようでさえあった。それでも観光バスだから、途中の茶屋や、展望台で止まったりしてくれれば、皆一様に降りてみたりしていた。展望台ではすでに暗くなり始めていた頃なので、そこからは夕焼けの中に輝く金星と、ここに来て初めて黒いシルエットながら、岩木山の稜線を見ることができた。
 バスが山の中にはいると、夕焼けの赤い色を反映してか、黒々とした車窓には赤く染まった紅葉だけが浮かぶようにして見えた。昼間のうちに通過していれば、八甲田山全体に広がる溜息が出るような風景を見ることができたんだろうけど、赤い紅葉樹だけが浮かび上がる様は幻想的で、またひと味違った楽しみ方ができて、その美しさは少しも損なわれないと思う。
 バスは少ない乗客を乗せていたこともあって、各々のホテルや旅館の前で降ろしてくれた。僕は車内で知り合った台湾人の学生と、おぼつかない英語を使ってそれぞれの生活や趣味のことを話しながら順番を待っていた。僕の英語が伝わったのかどうかは別として、話が盛り上がったところで先に降りなければらならかったから、せっかく仲良くなれたのに残念だった(そう先に言ってくれたのが彼らの方だったので、なおさら嬉しくなってしまった)。

 南部屋(なんぶや)に着いたのは、とっくに夜の7時を過ぎていて、宿泊客はみんな夕食中だった。「もうこないんじゃないかと思っていたんですよぉ」って澄んだ声を廊下に響かせながらあれこれ案内してくれていたが、僕はこのようにして宿の方に心配をかけるのが常だ。特に冬ともなると、夕方の5時を過ぎてしまうと周囲は真っ暗だから、実は僕の方も不安になってしまう。今日もバスの運ちゃんが「南部屋ならここが一番近いところだよ」といって降ろしてくれたのは良いけど、バスが去ったあとのそこは、真っ暗な山の中にひとり取り残されたような気がして、とっても恐かったんだから。

 そんな僕を優しく包み込んでくれたこの宿の柔らかい雰囲気は、宿のスタッフ(といっても三人しかいなかったがー)が全員女性だったからか、すぐにリラックスすることができた。

 朝は宿泊客がごっそりと引き上げたあとを見計らって、ノコノコと出て行くが、これもいつものことだ。宿の人とゆっくり話をしたいから、最後に出ていくことにして行くが、向こうも僕で最後だからか、たいていの場合ゆっくりと話し相手をしてくれる。

 この時に僕の相手をしてくれた女将さんの穏やかな優しい口調の印象が鮮明だったので、今日の電話でも「青森の〜」という声を聞いたとたんにすぐにわかったぐらいなんだから。

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 ここ南部屋の食堂には金魚の水槽が置いてあって、しかもそこで泳いでいるのは、僕が金魚の中で一番好きな水泡眼(目の下にぷよぷよとした水泡をつけたかわいいやつ)だ。だから僕は飽きもせずに食堂に入るたびに水槽の彼らを眺めていたら「うちに来たお客さんの中で、そんなに熱心に見てくれる人は初めてですよ」と言われたので、僕も水泡眼が好きで、今も家で飼っているといったようなことを説明をした。そうしたら女将さんは、増やしたいんだけど、なかなかうまくいったためしがないという。僕は嬉しくなってしまい、知っている限りの方法を教えてあげた。あれからどうなったんだろう。今日の電話でもそのことで盛り上がったんだけど、今度行くときが楽しみだ。