12月の空、1月の空

 12月に入ってから、毎朝、水道から出てくる水が氷水のように冷たいと感じるようになった。北風が吹く日も増え、窓をガタガタやる日は決まって筑波山や秩父連山までが見渡せる。特に秩父の山々が周辺の町並みの向こうの地平線に姿を現すとき、ここ関東平野も山に囲まれていたんだなぁという気がして、時々そんな光景を見ては驚かされる(ちなみに、かの富士山は目の前に聳える志津マインのせいで見えない…)。
 この山並みが現れる日は西高東低の低気圧配置の影響から、特に北風が強く吹いている日であることが多い。だから「あの辺りから吹き下ろされた風が、なんの障害物もないまま太平洋まで吹き抜けていくのか」と思えば、関東平野を渡ってゆく北風が、視覚的にも冷たいということが伝わってくるようだ。
 それから木枯らしが、すっかり葉を落としてしまった梢の間を渡ってゆく音を聞く機会も増えてきた。道端には色とりどりの落ち葉がカラカラと乾いた音をたてて僕の足下を駆け抜けてゆく。時にはつむじ風が吹いて枯れ葉をグルグルと舞わせる光景も見かけるようになったが、僕はこの風や音を聞くのが好きでたまらない。つくづく、いい季節になったと思う。
 同じ風景や冷たい空気であっても12月のそれと1月のそれとではずいぶん感じ方が違う。12月は「師走」とか「年の瀬」とか、最近では「世紀末」なんて言葉も流行言葉のように使っているけど、何となく抜けるような青空であっても「暮れる」というイメージから、どことなく感傷的な気分にさせられてしまう。
 それが1月になったとたん、たとえ灰色の空がどんよりと立ちこめて北風が電線を振るわせようが、もはや12月の感傷的なそれとは違い、「迎春」だの「新春」という言葉が除夜の鐘を聞いた瞬間から気持ちの中に入り込んでくるから、それは清々しく感じてしまう。
 日本語には四季をあらわす言葉に「新春」とか「初冬」というように「初」という言葉をうまく使って表現する時期がある。それとは逆に季節の暮れゆく時期に「晩夏」とか「晩秋」というように「晩」を使って同じように気持ちを言葉に託す。
 「晩冬」は季節的にいえばすでに「初春」であり「新春」だ。実際は寒さが厳しくなるのは1月、2月なのであるが、せっかく新年を迎えたというのに、いつまでもつらく厳しい冬を引きづらなくとも、新しい年を迎えたところで気分も入れ替えたいからか、「晩冬」という言葉は聞かない。そんな心理的な面からも、12月に吹いていた北風が1月に吹いてみても清々しかったり、空の色も新鮮に感じるんだろう。だから「晩冬」という言葉を使わず「新春」を使うんだろうと思う(僕はつらく厳しい冬も大好きなのであるが…)。
 しかし、厳しい冬があるからこそ、そのあとに訪れる「春」という季節が素晴らしく感じるということを忘れてはいけない。季節の移り変わりがあるからこそ、人は気持ちを入れ替えることができるし、人を勇気づける力を持っているんだから。“夜が来れば夜明けが訪れ、冬が終われば春がやってくる。自然の反復には無限の癒しがある”とレイチェル・カーソンは『センス・オブ・ワンダー』の中で綴っているように。

 師走に入ってから、ぎょしゃ座のカペラの瞬きを北の空に見つけると「いよいよ年の瀬だなぁ」と感じる。ただ、この星は季節と時間さえ問わなければほぼ一年中見ることができる星なので、特に冬の星と限ったわけではないが、やはり寒くなる今の時期に北風に震えながらチカチカ瞬く輝きが、この星の一番の味わい方だと思う。
 僕のほうも11月に見るカペラを「もう昇ってくる時期になったのか…」と、晩秋から初冬の訪れをはかる星としてみているのに、12月に入ってから東の空に見るカペラに人々の動きと、この星の瞬きを重ね合わせ「せわしない動き」を楽しむようにしている。星の表情という者は見る人の心によっていろいろな見方ができるものなのである。
 ただ、このカペラに限らず、この時期に姿を見せる星たちは揃って烈しく瞬きあっているそれは、あたかも地上の人々の右往左往する行動に合わせるかのように、チカチカとせわしなくまたたくから面白いと思う。特にその最右翼といったらオリオンの左下に現れる天狼シリウスで、この星の瞬きといったら赤に青に、それはそれは忙しいからすぐわかる。

 北風が吹くとあいかわらずその誘いに乗って家を出ていってしまうのはいつものことだが、最近は地上の夜景を視界に入れながら見るようになった。本来なら星を見るには邪魔者以外の何者でもないのに、最近は慣れてきたからか、あまり気にならなくなってきたようだ。
 冷たい北風を身体一杯に受けながら星座たちの物語に耳を傾けていると、さすがに首が痛くなってくるので、疲れないように下を向くと目の前には遠くの町の灯りが自然と目に映る。それは町灯だったり商店の看板だったり、町を通り過ぎてゆく車のヘッドライトだったり、家々に点る家庭の灯りだったりするが、その光も星と同じようにチカチカ、というよりはユラユラと揺れて見える。あの灯りの下にはさまざまな家庭の物語があって… と想像すると、頭上に拡がる星ひとつひとつにもそれぞれの物語や、それぞれの時間があり、そして地球と同じような星があるのかもしれない… と、なんの違和感もなく考えてしまう。それから僕が見てみたいと思っている不知火は、もしかしたらこんな感じで水平線上に現れるんじゃないかと思うと、眼下に広がるネオンの町灯も神秘的に見えるから面白い。
 昨日も用があって銀座の街を歩いていると、カペラの瞬きがこっちを見ていることに気がついた。「これだけのネオンサインの出ている街中で、よくもまぁ、お前… 見えているなぁ」と挨拶を送りながら、お上りさんよろしくキョロキョロと他のビルを見上げてみると、ビルとビルの間に挟まっているオリオンのベルト、通りに沿うようにして木星と土星の優しく投げかけるような穏やかな姿が目に映った。他にも探し出せば冬の1等星の姿が、まるでビルにつけられた装飾のように明るく照らし出された夜空にかろうじてかかっている姿があった。
 せっかく星の世界がここにも拡がっているというのに、イルミネーションに彩られた街並みはクリスマス一色で、その光景に目を奪われ続ける街行く人たちは誰ひとりとして仰ごうとはしない。そこらじゅう定番の音楽があふれていたので、せっかくの天界の音楽も、あまりに微かで、すっかりとかき消されてしまったのでは仕方がないのだろう。それでも、ちょっとでも通りを外れると、そこにはいつもと変わらぬ星たちの姿を見ることができ、まだまだこんな都会の真っ只中でも星たちの居場所があるんだなぁと、少しだけ安心することができた。
 それまでは上ばかり見上げていたので気がつかなかったが、どうやらさっきまで雨が降っていたようで足下が濡れている。道行く人々の中にはコートの襟を立てて歩いている姿も多く、この雨が雪に変わるようになるには、あまり時間を必要としないのかもしれない。