魚津の蜃気楼

 気がつくと僕の乗った上野発金沢行きの『白山』は、妙義山の聳え立つ横川の駅で、碓氷峠を越えるための電気機関車を連結させていた。どうやらそのときの振動で目がさめたらしいが、僕は夜勤明けのうっすらとした記憶の中で、この事と妙義山の奇怪な山肌を思い出しながらぼんやりと車窓の外を眺めていた。ハッキリしない記憶の中で泳いでいると、「いつか目の前の妙義山に登るゾ」と思っていたことまでは覚えているが、列車はいつの間にか海岸沿いを走っている。途中、直江津から進行方向が逆になるために、今までとは座席が逆になってしまった。その進行方向に向きを合わせるために、車内の乗客が全員立ち上がって座席を動かす作業をしていた。平日の特急列車ということもあるし、上野からダイレクトで金沢まで行く列車は、この『白山』しかないにも関わらず、乗客はまばらで、その座席もバラバラの方向を向いている。僕がみんなのマネをして座席を変えなくても特に問題はなさそうだ。ハッキリとしたことと言えば、どうやら上野からここにいるのは僕だけになってしまった。

 今回の目的は立山から松本方面に抜ける“立山黒部アルペンルート”を縦走することだったが、その前にこの時期になると見ることができるという蜃気楼を見るために、魚津で途中下車をする予定を組んでいた。
 上野からここに来る間、唯一天気のことが気になったのは、妙義山の山肌が低くたれ込めた、いかにも神々しく見せる雲がかかっているときだけだったのに、日本海が見えだしたとたん、灰色の空は我慢しきれずにポツポツと雨を落としてきた。日本海は鉛色の空がよく似合うとはいうものの、こうも簡単に実現してしまうなんて、なんてついているんだろう(トホホ)。

 「こんな雨降りのときでも蜃気楼なんて見えるのかなぁ」と思っているうちに、列車は魚津に着いた。そこから先へは錆びた貨物専用の線路の横を通って港に向かって歩いていく。ここは世界的にも有数な蜃気楼の出現する場所にもかかわらず、なんだかこの町は退廃的なイメージに僕の目には映った。それは錆び付いた貨物列車の軋む音から感じたのかもしれないし、雨を落とす灰色の空のせいかもしれない。“世界的”なわりには寂れた雰囲気があったが、逆に僕にとってはこの方が好都合だ。世界的にといえば、ここはホタルイカの漁場でも有名である。そのせいで、港のあちこちには物凄いランプを吊るした漁船が停泊していた。
 蜃気楼は良く晴れた日が何日も続かなければ出現しないと聞いていたので、しかも雨とあってはどうにも拝見するチャンスはなさそうである。それでも自然は気紛れだから、もしかしたら出現するかもしれないと、かすかな期待を込めて魚津港まで足を運んでみたものの、ポツポツと傘に当たる音だけが妙に空しく響いて聞こえるだけだった。
 工場の唸る音や、港に入ってくる様々な音を聞きながら魚津港に入ると、カメラを手にした人たちがチラホラと堤防の先の方で海を眺めているようだったから、同業者がいるとばかりに、そばに近付いて話し掛けてみた。
 「3日前にね、あそこらへんに大っきいのが出てたんだよ。でもあんまりにはっきりしていたんで、どこまでが本当の景色で、どこからが蜃気楼なのか分からなかったな。僕も見たのはそのときが初めてだったからね。もしかしたら今日も見えるんじゃないかと思って来たんだけど、ダメだね」
そう言って遥か沖合いを指差しながら見つめたから、僕もその指先をジッと見つめた。富山市では蜃気楼が出るとテレビやラジオで、蜃気楼情報を流すのだという。この人もその日は速報を聞いて飛んで来たそうだ。蜃気楼は自然現象だから、一瞬の出来ごとで予測もしずらく、運良く速報を聞いて来たからといって、必ずしも見ることができるとは限らないという。辿り着いたときにはすでに消えてしまった後だったということが多いということで、地元に住んでいる人でさえ、あまり蜃気楼を見たことがないらしい。

 いつまでも名残惜し気に海を見つめているその人と別れた後、近くの埋没林博物館を見学した。ここはかつて巨木が生えていたところで、港を建設する際に海底から巨木の根の部分が次々に現れ、この場所が今とは全く違う様相をしていたことを物語ってくれる生証人らしい。
 博物館といっても、プールの中に苔むした木の根が沈んでいるに過ぎなかったけど(しかも現在は新しい建物を建築中だったらしく、僕が入ったのは仮設の建物だったから、あまり貴重な物という雰囲気が伝わってこなかった)、何十年も前にここに生えていた巨木が、水没した時のままの姿が残されているのである。それだけでも何か人間の歴史とは違う時間の流れを彷徨っていたような雰囲気が味わえるのではないだろうか。模型でないこの姿には、圧倒されるばかりだ。

 ふたたび錆びた道路を市街地に向けて歩きながら、ガイドマップに載っている土産物屋を探した。どれもこれも似たような店構えで、もうどこでも一緒だろうと手当りしだいの店に入ると、案の定僕のような格好の人間は、暇を持て余している店員や工場の従業員たちのいい暇つぶしになったようだ。
 「どこからきたんだね?」
 「千葉からです」
 「ほぉ〜う。そりゃずいぶん遠ぉ〜くから来てくれたね〜」
 ほとんどこの繰り返しだったが、みんな仕事の手を休めて熱心に僕の相手をしてくれる。それは何も土産物屋の中に限ったわけではなく、町行く人々も、信号待ちをしている車の中の人々も僕に注目の視線を浴びせかけてきた。それぐらい、今回の僕はいかにも「旅行に来てマス」という格好をしていたようだ(自分では意識していないのに)。
 ある土産物屋の町工場では、数十人の注目を一気に浴びてしまった。
 「2〜3日前にくりゃあ、ずいぶんでかくてハッキリしたヤツが出てたのになぁ…。そのときは事務所の仕事をほったらかしにして、みんなで見に行ってきたぐらいなんだから」
 と、残念がってくれた。事務所の主任らしき人が代表でそう言い出すと、みんな仕事の手を休め、僕を取り囲むようにして思い思いの印象を話し始めた。
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 魚津では蜃気楼の収穫がないまま、明日からの行程に少しでも都合がよいようにと、僕にしてはめずらしく、富山の駅前にあるシティ・ホテルに宿を決めた。本当なら(予約が取れたら)、魚津のホタルイカ漁に参加すべく魚津近辺に泊まるつもりでいたのに。
 明日の縦走に備えた部屋からは、窓に当たる大粒の雨の音だけが聞こえ、夜が深まるにつれその音も凄みを増していく。さっきまで静かな夜の街を映し出していた窓の景色も、今はゆらゆらと流れるようなネオンサインしか見せてくれない。どうやらこの部屋に置いてある小さなテレビから流れてくる天気予報通りに、低気圧の接近で大荒れに荒れ始めたようだ。