昨日の夕刊の記事に『ヒグマ現る』の文字を見つけて驚いた。明日から三泊四日で北海道は大雪山系の紅葉を見に行くことになっていたからだ。記事には探勝路をヒグマが歩き人間は脇の草むらに隠れてその行方を追っていたというから、ちょっとおかしくなってしまったが…。

 本当ならばひとりかっこよく、あてどなく北風を切ってさすらっていく“一人旅”のつもりで計画を立てていたのに、「北海道に行って来るから」という話をしたら「あらぁ。私も行くワ」と母と二人旅(父は留守番)になってしまった。そして母の願いを聞き入れることにして、紅葉狩りになったのである。

 母は毎日のように散歩をしては、「一丁目になんか変わった花が咲いている」だの、「赤い実を付けた木がなっているのを見つけた」とか話してくれる。だから今回行こうとしている旭岳や層雲峡の沼めぐりコースも、「足腰は鍛えているから大丈夫よ」と言う。でもそれは北海道の山の中とは大違いで、「もしかしたらヒグマが出るかもしれないんだ」と言うと、「それは困るわねぇ。あんたと二人だけだったら、きっと私の方が喰われちゃうわ。今のうちに死んだふりの練習でもしておこうかしら…」と言って床にひれ伏してみせる。見るからに鮮やかな死んだふりである。そして今度はヒグマ騒動の記事を見せると、「うーん。でも紅葉見学の客がこれだけ歩いているんだから喰われる確率も減るから大丈夫よ」と、力の抜けるような返事しか返ってこなかった。

 北海道に限らず、自然の中に入っていくと人間も自然界の一員なんだということに気付かされる。支配しているのは自然の法則だということに。そしてその中ではあまりにも自分たちが無力だということに気付かされて驚くのだ。森の中での生活をしなくなった人間は、森に対する思いやりを忘れてしまった。人類の歴史の中では森との共存が長かったにもかかわらず、いまでは森で暮らしていた時間の、ほんの何万分の一の短い時間のうちに思いやりをなくしてしまったようだ。

 むかしむかし森の中で暮らしていた頃には、必要以上に木を伐採しなかっただろうし、果物や木ノ実でさえ同じ森に住んでいる小さな住人たちと分かち合っていただろう。すべての物は平等に分け与えられ、共存することによって森にはいろんな動物たちが住むことを許されたのだから。

 大雪山に入る前に僕たちを待ち受けていたのは、ヒグマについての注意事項だった。ここは安全な動物園とは違い、柵によって境界があるわけではない。むしろ僕たちが柵の中に入っていくと考えた方が正しいのかもしれない。

 今までに山に登る前にこんなに緊張したことなんかなかった。だから大きく深呼吸をして「僕は小さな存在なんだなぁ」そう思いながら、母と二人で、熊追いの鈴をカラカラ鳴らしながら歩き始めた。
 人間を恐れるようになったヒグマも、僕の鳴らしている小さな鈴の音を茂みの中で聞いているんだろうか?生気に満ちた山の中に僕たちの鈴の音だけがしみこんでいった。