出雲の国

 出雲大社の正面からまっすぐに延びる道を歩いていくと、コンクリートで作られた大鳥居を越えて、旧JR大社駅へとたどり着く。現在は廃線になってしまい、人の往来が少なくなってしまったためか、この周辺の佇まいも、いまいちパッとしないものがあった。かつては出雲大社の拠点として栄えたところだったんだろう。そんな静かな町並みの行き着くところに、重厚な木造づくりの大社駅が僕を待っていてくれた。
 “神の居づる国”というところから出雲という名が起こり、毎年10月を神無月(かんなづき)と呼ぶのは、日本中の神様が縁結びの会議のためにここに集まってくるからだ。当然の事ながら、この地方では神無月と呼ばず神在月(かみありづき)と呼ぶのだという。
 人が列車を利用しなくなってからおよそ3年(廃線になったのは平成2年3月31日)。ここを訪れるのは、僕みたいに大正に造られたという駅舎を見学にやってくる観光客ぐらいだろう。かつては多くの参拝客を乗せた列車が、一日に何本もやってきてはこの駅舎を利用していた。わずか3年という短い時間でも、本来の使い方をされなくなったものは、どんなものであれ寂れていくばかりだ。だから、いくら立派な木造づくりで、ボランティア団体が管理をしてくれていても、さすがに生気を失っているように思えた。人の作ったものには造った人の魂が残り、使っていく人に受け継がれていく。“使えば使うほどに味が出る”というのは、使っていく人の魂が宿り、使っていく人の魂が注ぎ込まれていくからだと思う。このことはどんなものにでも当てはまるのではないだろうか?何百年も前に建立された神社など、いつまでも生気に満ちているのは、参拝者の祈りがそうさせているからだと思う。

 駅舎の中は、ガランと静まり返りとても寂しかった。運賃表、時を刻み続ける時計、それから電話が置きっぱなしになっていて、それが、ここを去っていった駅員や、駅長の気持ちがどんなだったかを伝えているようだ。
 そんな残された風景を見ていると、「あれっ?駅員はどこに行っちゃったんだろう?」って感じだった。電話は今にも鳴りだしそうだし、時計と時刻表を合わせてみれば、時間通りホームに列車がやってきそうだ。そのうちに再開されるんだろうか?
 ガランとした駅舎は答えない。駅をあとにして振り返ると、いつまで待ってもやってこない主人を待ち続ける忠犬のように見えた。