Dawn Chorus

 3日後に控えた金星と木星の大接近の光景を、ぜひとも組写真(数日に渡り)でとらえようと考えていたのに、結局今日まで晴れることはなかった。撮影地と決めていた印旛沼公園に着いたときも、辺りはまるで雲の中にでも入ってしまったのかと錯覚してしまうほど、ガスが煙のように街灯の周りでダンスを踊っている。何となくオカルト映画のワンシーンにも思えたが…。
 「こりゃヤバイな」と思っていた通り、いつまでたっても薄明が始まったようには思えず、これは相当濃い霧とみえ、金星さえいつもの輝きがなく、どことなく赤味を帯びていた。そしてもうひとりの主人公であるはずの木星の姿がどこにも見えなかったので、この霧の凄さがわかろうものだ。
 とうとう今日の撮影はあきらめ、せっかく来たんだから薄明の始まりまでは眺めていようと、その場に立ちつくしていたら、なんと春の朝の賑やかなこと。僕が好きな著作の中で、レイチェル・カーソン(1907.5.27-1964.4.14)が晩年に書いた『センス・オブ・ワンダー』の中にある、春の早朝の描写をしていたのを思い出してしまった。

 『最初の声は夜明け前に聞くことができます。その最初に鳴くひとりぼっちのシンガーを聞き分けるのは簡単なことです。数羽のコウカンチョウは、すきとおった声で鳴き、それはまるで誰かが犬を寄せるときの笛のようです。のどの白い鳥のさえずりは、喜びを思い起こしてくれる夢のような音色なので、まるで天上の歌のようです。木の枝から去ったヨタカは、単調なさえずりを続けます。その声はいつまでも繰り返され、“聴く”というよりむしろ“感じる”というような音をしています。そして、それらの声にツグミ、スズメ、カケス、モズモドキが加わります。そのコーラスにコマドリの声が加わると、ますますコーラスのヴォリュームが上がってきます。そして、コマドリ自身がノッてくると、野鳥の声のメドレーの中でも、特に目立って聞こえるようになってきます。生命の鼓動がひとつになって聞こえるのが“ドーン・コーラス”なのです』
 (荒川義男、山縣桂子、湯上昇、皆川敏春共訳 協力荒川英子)

 まさにその光景が僕を取り囲んでいたのである。足下の雑草に夜露がたまって、ズボンが泥だらけになっていたが、そんなのは気にもならなかった。
 電波天文学の世界にも“ドーン・コーラス”という現象が存在する。第一次世界大戦の際に、戦場の通信士たちが敵の無線を盗聴していると「ピューイピューイ」という、まるで鳥のさえずりのような音が入ってきたという。この音を“ドーン・コーラス”というが、これは太陽から届く電磁波が地球の大気に突入する際発生する電波で、もちろんパラボラアンテナを通してでないと聞くことのできない音である。地上でも天界でも同じような音の世界が広がっているというから驚かされてしまう。まさに自然の不思議を垣間見ているようだ。
 その天と地のコーラスは、夜明け前に一大シンフォニーに膨れ上がり、日の出とともに静かに消えてゆく。まさに地上と天界の共演といえよう(ちなみに、このパラボラを通してしか聞くことのできないドーン・コーラスの生音は、冨田勲氏の『Dawn Chorus』で聴くことができる)。
 僕は『センス・オブ・ワンダー』の中でも、特にこの描写の部分が大好きなので、本に登場する野鳥とはまた違う種類のさえずりや、ヒバリ、カエル、ハルゼミが加わったドーン・コーラス(暁の合唱)を聴きながら、この一節を思い出していた。
 大自然の中にいる喜びを感じた朝だったが、また彼女の名を不滅のものにした『沈黙の春』を思い出していた。この季節、ドーン・コーラスを聞くことができない朝を迎えたらどんな気分になるだろうかと…。あたりが明るくなるにつれ、ますます合唱の規模が膨らんでいった。

 午前3時に目覚ましをセットしたものの、すでにフトンに入る前から雲行きが悪そうに思えた。というのも今までの経験上、たいていの当日は曇るからだ。昨夜はそうならないように祈りながら、めずらしくギラギラしている星たちを望遠鏡で幾つか覗いた。シリウス、ポルックス、アルファルド…。ここからだと年に数回しか見ることのできなくなってしまったからす座が、こちらの様子を気にしながら隣の家の屋根の上に飛び乗って首をかしげた。昨日の朝、小桜インコのツピちゃんが逃げたのを心配してくれているのだろうか。
 身体のリズムもあるから、たとえ3時起きのつもりで21時にフトンに入っても、0時過ぎに目が覚めてしまった。寝ぼけ眼とカーテン越しといえども、何となく曇っている感じがしたので、おそるおそるカーテンから覗くと、ぽつぽつ(それもかなり明るい)星が浮き上がってきた。あれこれパターンを考えながら結んでいくと、さっきまでからすがとまっていた屋根に、今度は古代ギリシアでは医学のシンボルだった蛇を胴体に巻き付けたアスクレピオス(へびつかい座)が足をかけている。この部屋からへびつかいが見られるなんて、もしかしたら初めてのことかもしれない。
 午前3時に目覚まし時計は、きっちりと自分の仕事を果たして僕を起こしてくれた。3時間前の様子とはずいぶん変わっただろうと、カーテンを開けると、のっぺりとした灰色の空に変わってしまっている。確かに変わってしまっていたが、こんな変化は望んでいなかった。「こりゃダメだ」とあきらめ、目覚ましを出勤時間に合わせなきゃと思っているうちに、意識が遠のいた。
 が、30分ほどして「ハッ」と何かに気づかされ(もうあきらめたらこういうことはまず無いはずだが…)、慌ててフトンから抜け出すと、カーテン越しには、おとといと比べると明らかに細くなった月と、その下には(鳥肌が立ってしまったほど)接近した明るい二つの星が縦に並ぶ光景が目に飛び込んできた。昔の人たちは、こんな惑星同士のランデブー(大接近)に、畏怖の念を覚えたにちがいない。今から25世紀も前、紀元前747年に起きた惑星同士のランデブーを、キリスト生誕にかかわる現象として“ベツレヘムの星”と呼んだというぐらいだ。ただ、星に興味がない人が、たまたま早起きして目の前でこんな光景に出くわしたとしたら、きっととまどいを覚えるはずだ。
 僕がカーテン越しに見た光景は、「まったく違う世界で何か大変なことが起きている」というぐらいにしか対処できない人間の存在の小ささを味わった気がする。この光景を見てなんとも思わない人がいるんだろうか?それぐらい天界での出来事は人間を恐怖に陥れる力を持っている。星の姿を神にたとえていた時代の人たちが、星の動きに左右(心が動く)されて、占星術を始めたと考えてしまうのも、ある意味で自然なことなのかもしれない。

 頭上で起きている神々の饗宴、ジュピターとヴィーナスが、何も知らずに寝ているシルエットの家々を静かに見守っている中、僕は車のフロントガラス越しに二人の姿を見やりながら、撮影地へと急いだ。