桜のキモチ
ずいぶん前からマスコミで取り上げられるようになった印旛は、吉高の大桜を見に行った。四月も半ばになろうというのに、まるで花を咲かせる気配がない。地主の人に尋ねてみると、「あれは山桜だから、吉野桜が咲かねとな」と教えてくれた。
 そうはいっても周辺の吉野桜はほぼ満開で、チラチラと花吹雪も始まっている。畑の真ん中にたった独りで立ち、他に身を寄せあう仲間もなく、吹きっさらしだからだろうか。
 それから十日が過ぎて再びいってみると、遠目で見ても花が咲いているのが見えた。もともとが山桜だから、吉野桜のような艶やかさもなく、巨木のわりにはソーゾーしていたよりも地味な格好をしている。それでも樹齢が300年といわれるこの古木が、季節を感じとって毎年毎年葉や花を咲かせてくれる姿には、いじらしさを感じてしまう。そんな姿を一目見ようと多くの見物人が押し掛けるから、さらにはりきって花を付けてくれている。そのおかげで枝を折っていく人や、マナーを守らないカメラマンをも引きつけてしまった。
 地主の好意で畑の中に順路を設け、桜に近づけるだけでもありがたいことなのに、『立入禁止』の看板が立っているにもかかわらず、畑の中に入り込んで写真を撮っているカメラマンがいた。
 限られた条件の中で、どれだけの表現ができるかがその人のウデの見せどころなのに、そういった人たちには「ウデがない」のではなく「(考える)心がない」のだろう。ついでに耳も。「立入禁止の看板が立ってますよ」って言っても聞こえていないらしい…。

 そんな人々の姿を見て、花を咲かせるのをやめてしまってもいいよ。たまにはすとでも起こしてみたら? そうすれば心ない人や、花を咲かせたときだけにしか関心を寄せない人もやってこないだろうからね。そんなことを言ってみてもわからないか。それに誰のためにでもなく、自分自身のために立ち続け、花を咲かせているんだからね。

「地元地域や、子供たちの将来のためにも自然を残してやりたい」と、地道な運動を続けている人がいる一方で、自分の欲望のためにそこから持ち出してしまう大人たちがいる。それを見て子供がまねをする。そうやって成長して大人になったとき、また同じことを当然のように繰り返すんだろう。
 長い時間をかけて自然が戻ってきても、それをまた振り出しに戻してしまう人たちがいたら、元も子もない。「権兵衛が種まきゃ、カラスがほじくる」とはうまくいったもんだ。