秋吉台
 殺伐とした狐色の大地に雲の黒い影が走り、冷たい風が雪片を織りまぜながら、ススキの間を音をたてて渡っていく。日本では最大級というカルスト台地にも冬到来といった感じ。正月だからといって、昨日行った宮島(厳島神社)などのように人で賑わうところでもないし、足下に広がっている秋芳洞のように神秘的な空間でもないし、展望台から見てしまえばそこまでというような秋吉台。
 人にはそれぞれの楽しみ方があるから、展望台から地平線の彼方まで、ただ黙って眺めるのもいいし、車に乗ったまま走り抜けてみるのもいい。でも僕には路傍に咲く名前の判らない花を「この花きれいだね」とだけ言って通り過ぎていくことが出来ないのと同じように、目の前に広がっている広大な秋吉台を一望しただけでは物足りず、
 「あの中を歩いてみたいなぁ」と思った。
 それは「この花はなんという名前なんだろう?」と思うのと似ているかもしれない。見ただけでは感じることが出来ないといったところか?
 平澤君と長者ヶ森を目指して、写真でも見ているような変わり映えのしない景色の中の遊歩道を1時間半ほど歩いただろうか。遠くから眺めていただけの大地さえ、たった一歩その中に足を踏み入れたとたん、自分が風景の一部になり、風と戯れているような大地のつぶやきを自分の肌で直接感じることができた。
 展望台からは目にすることが出来なかったけど、奥に入って行くにつれて、至る所に羊の群のような石灰岩の露岩(カレンフェルト)が現れた。この光景は他にも動物の化石だとか白骨なんかに例えられているけど、ずっと昔からここに存在してきたということを考えると、僕には古代人が創った遺跡のように思えてしまう。まぁ、どれもこれも、もの悲しいイメージと結びついてしまうんだけど。
 そして「危険!立入禁止」という看板がなければ、“ドリーネ”と呼ばれているじょうご型のくぼみにはおそらく気づかなかったことだろう。何気なくススキの中で見え隠れしているけど、実はこの真下にポッカリと口を開けている秋芳洞の鍾乳石とつながっている。つまり僕たちは鍾乳洞という空洞の真上に立っていることになる。そんなことを考え出したら、急に足下が頼りなくなってしまい、早く足下のしっかりとした所へ行きたくなってしまった。
 もと来た道を引き返してみても、これといって動く物を見ることもなく、ススキの上を渡る風の中に白い雪片がいくつか舞っている程度だった。それは僕らがここに来たとき初めて目にした姿とまったく変わらない光景だ。そして、遠くの丘の上を何時間か前と同じように雲の影と日の光が交互に移りゆく。誰のためでもなく、何千、何百年もの間、ただ繰り返され続けているだけなんだろうけど、ゆっくりと動いていく影の姿に、自然の法則とでもいったらいいのか、人間の歴史とは違う時間の進み方が存在しているように思えた。
 そんな光景を黙って眺めていたら、どういう訳か子供の頃のことを思い出してしまった。ここまで来るのに、かなり急ぎすぎていたんじゃないだろうか、と。自然は気の遠くなるような歳月を掛けて自分の姿である風景を作り上げていくのに、僕たちはスピードだけを追い求めて、大事なことを忘れてきてしまったような気がする。

日本三大鍾乳洞;
秋芳洞(山口県)、
龍河洞(徳島県)、
龍泉洞(岩手県)